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日本固有の建築要素を生かした、モダニズムの建築家、前川國男の自邸
日本の名作住宅として知られる前川國男のご自邸を紹介します。
Karen Severns
2017年4月28日
Houzz Contributor. Writer, educator, filmmaker, archi-fanatic
日本の建築遺産が急速に失われつつあるなか、知られざる日本建築の宝庫といえる場所がある。かつての名建築が7ヘクタールの敷地の中に保存・展示されている、江戸東京たてもの園だ。東京の西の郊外に位置する小金井公園のなかに、もとの立地では存続できなくなった建物を移築するために1993年に開園した野外博物館で、時代も様式もさまざまな30棟ほどの建物を見ることができる。
農家、中・上流階級の住んだ都市部の住宅、旅館、穀倉、銭湯、戦前の店舗など、貴重な歴史的建築物が並ぶなかに、20世紀建築界の巨匠のひとり、前川國男(1905-1986)の自邸がある。急勾配の切妻屋根と木枠の窓が特徴的な、小さな赤茶色の木造建築だ。東京文化会館、国際文化会館(坂倉準三、吉村順三と共同設計)、東京都美術館といった、前川の手掛けた有名なモダニズム建築を知っている人にとっては、ごく素朴でコンパクトなデザインのこの住宅が、同じ建築家のデザインであるというのは意外に感じられるかもしれない。
農家、中・上流階級の住んだ都市部の住宅、旅館、穀倉、銭湯、戦前の店舗など、貴重な歴史的建築物が並ぶなかに、20世紀建築界の巨匠のひとり、前川國男(1905-1986)の自邸がある。急勾配の切妻屋根と木枠の窓が特徴的な、小さな赤茶色の木造建築だ。東京文化会館、国際文化会館(坂倉準三、吉村順三と共同設計)、東京都美術館といった、前川の手掛けた有名なモダニズム建築を知っている人にとっては、ごく素朴でコンパクトなデザインのこの住宅が、同じ建築家のデザインであるというのは意外に感じられるかもしれない。
前川(前列中央)とレーモンド(後列中央)。レーモンド事務所の同僚である吉村順三(前列右端)、家具デザイナーのジョージ・ナカシマ(後列左から3人目)の姿もある。1935年撮影。写真提供:北澤建築設計事務所
しかし前川には、チェコ生まれの建築家、アントニン・レーモンドのもとで5年間働いていたという経歴がある。レーモンドは、彼の師であったフランク・ロイド・ライトと同様、日本人建築家たちに対し、日本の伝統の内在する可能性について目を開かせた人物だ。パリのル・コルビュジエのアトリエでしばらく働いていた前川は、1930年に帰国したのちレーモンド(写真中央。前川は前列左から3人目。1935年撮影)の事務所で働き始め、レーモンドが東洋と西洋を融合させた独特なモダニズムを日本につくり出していくなかで大きな役割を果たしている。1942年に竣工した前川邸は、その東西の融合を前川自身が表現した最初の例となった。
前川國男が東京帝国大学(現在の東京大学)で建築を学んでいたのは、日本が国として新しいアイデンティティを確立しようと模索していた激動の時代のことである。建築において日本の伝統がどのような役割を果たすべきかという議論が盛んに行われていた。日本の建築は古来から、モジュールを基本とする設計、用途の柔軟性、シンプルさを重視するものであった。学生時代の前川は、新しい素材や技術を探る新建築運動に傾倒しており、海外からの影響を受けながらも日本固有の建築の要素を維持するべきだと考えていた。
しかし前川には、チェコ生まれの建築家、アントニン・レーモンドのもとで5年間働いていたという経歴がある。レーモンドは、彼の師であったフランク・ロイド・ライトと同様、日本人建築家たちに対し、日本の伝統の内在する可能性について目を開かせた人物だ。パリのル・コルビュジエのアトリエでしばらく働いていた前川は、1930年に帰国したのちレーモンド(写真中央。前川は前列左から3人目。1935年撮影)の事務所で働き始め、レーモンドが東洋と西洋を融合させた独特なモダニズムを日本につくり出していくなかで大きな役割を果たしている。1942年に竣工した前川邸は、その東西の融合を前川自身が表現した最初の例となった。
前川國男が東京帝国大学(現在の東京大学)で建築を学んでいたのは、日本が国として新しいアイデンティティを確立しようと模索していた激動の時代のことである。建築において日本の伝統がどのような役割を果たすべきかという議論が盛んに行われていた。日本の建築は古来から、モジュールを基本とする設計、用途の柔軟性、シンプルさを重視するものであった。学生時代の前川は、新しい素材や技術を探る新建築運動に傾倒しており、海外からの影響を受けながらも日本固有の建築の要素を維持するべきだと考えていた。
1951年に英国で開催された第8回近代建築国際会議(CIAM)に出席した前川はル・コルビュジエと再会。第8回CIAMのテーマは「都市のコア」で、丹下健三が招待されて「広島平和記念都市計画」を発表した。写真提供:前川建築設計事務所
スイス生まれの建築家ル・コルビュジエは、当時のヨーロッパではすでに大きな影響力のある存在で、1920年代後半にはおもに「白い箱」と表現される形状の住宅建築で知られていた。実際のところ、こういった「住むための機械」にはあまり興味がなかった前川だが、叔父が現地に住んでいたこともあり、卒業後はパリに向かう。1928年の4月から、ル・コルビュジエのアトリエで製図工として無給で働き始め、14か月間滞在した。パリには坂倉準三もおり、2人とも日本に戻るとレーモンドの事務所で働き始める。その後、前川は1935年に独立した。
コルビュジエ的モダニズムは日本の文化と気候条件にもうまく適応させられることに気付いた前川は、20世紀でもっとも多作な建築家のひとりとなる。ただし、前川のコンクリート建築は商業施設や公共施設が中心であり、住宅建築では、近代以前の日本建築の要素を取り入れた温かみと親密感のあるデザインを重視している。
スイス生まれの建築家ル・コルビュジエは、当時のヨーロッパではすでに大きな影響力のある存在で、1920年代後半にはおもに「白い箱」と表現される形状の住宅建築で知られていた。実際のところ、こういった「住むための機械」にはあまり興味がなかった前川だが、叔父が現地に住んでいたこともあり、卒業後はパリに向かう。1928年の4月から、ル・コルビュジエのアトリエで製図工として無給で働き始め、14か月間滞在した。パリには坂倉準三もおり、2人とも日本に戻るとレーモンドの事務所で働き始める。その後、前川は1935年に独立した。
コルビュジエ的モダニズムは日本の文化と気候条件にもうまく適応させられることに気付いた前川は、20世紀でもっとも多作な建築家のひとりとなる。ただし、前川のコンクリート建築は商業施設や公共施設が中心であり、住宅建築では、近代以前の日本建築の要素を取り入れた温かみと親密感のあるデザインを重視している。
若い建築家の個性が真に発揮されるのは、自分の家を設計するときであり、第二次大戦中に建てられた前川の最初の自邸も例外ではない。ネオ・ジャパネスクな屋根のラインや入口前の塀に使われた大谷石、ガラスの扉と格子状の窓で覆われたドラマチックな開口部――南向きで、光をやわらかく取り入れる明かり障子がコントラストをつくり出している――を見れば、日本と西洋の要素が融合していることがわかるだろう。建築史家のケヴィン・レイノルズはこの家について、「前川がこの時期に手掛けた住宅デザインのなかでも、伝統的な様式がとくに明確に表れている」と言う。
前川建築におけるコルビュジエの影響を重視し、このような素材と規模で自邸を設計したのは、単に戦時の物資不足で政府が建築資材を制限していたため、そうせざるを得なかったのだとする建築史家もいる。しかし、家族のコネクションがあった前川は戦時中にも関わらず自邸建設を実現できたのだし、110.56平方メートルという延床面積も、規制の100平方メートルをわずかに超えるものだった。
素材について言うと、前川は自邸づくりに取り掛かる以前、フランク・ロイド・ライトの助手でもあった土浦亀城による1936年の有名なモダニスト住宅「野々宮アパート」に住んでいたことがある。モダニズムのもたらす革新には強く惹かれていた前川だが、このコンクリートの集合住宅についてはかなり住みづらさを感じていた。そのため、自邸ではヒノキなどの木材をふんだんに利用している。また、前川はペンキを好まなかったため、外壁の表面はオイルステインで仕上げている。
前川邸の設計担当者であった崎谷小三郎によると、設計案件全般において、自身の名を冠することになるにもかかわらず、前川がコンセプトについて言葉で表現することはほとんどなかったと言う。それは自邸でも同じであった。当初は、所員の浜口ミホが設計担当だったのだが、長屋式に横方向に部屋が連なるデザインを前川が気に入らず、1941年に担当を交代した崎谷が基本設計を仕上げた。
素材について言うと、前川は自邸づくりに取り掛かる以前、フランク・ロイド・ライトの助手でもあった土浦亀城による1936年の有名なモダニスト住宅「野々宮アパート」に住んでいたことがある。モダニズムのもたらす革新には強く惹かれていた前川だが、このコンクリートの集合住宅についてはかなり住みづらさを感じていた。そのため、自邸ではヒノキなどの木材をふんだんに利用している。また、前川はペンキを好まなかったため、外壁の表面はオイルステインで仕上げている。
前川邸の設計担当者であった崎谷小三郎によると、設計案件全般において、自身の名を冠することになるにもかかわらず、前川がコンセプトについて言葉で表現することはほとんどなかったと言う。それは自邸でも同じであった。当初は、所員の浜口ミホが設計担当だったのだが、長屋式に横方向に部屋が連なるデザインを前川が気に入らず、1941年に担当を交代した崎谷が基本設計を仕上げた。
初の自邸を建てる場所として、品川区上大崎の土地を選んで購入したのは、敷地内に生えていた3本のケヤキに魅了されたためだと言われている。当時は、ちょうど近くの目黒区にあった土浦亀城邸がモダニスト住宅として話題になっていた。土浦は、まず東京で帝国ホテル設計のインターンとして、その後はカリフォルニア州やウィスコンシン州でさまざまなプロジェクトの助手として、およそ5年にわたりライトと仕事をしていた。1926年に帰国すると、日本の住宅環境の改善に取り組み始める。ライトがロサンジェルスでつくっていた「テキスタイルブロック住宅」をヒントに、土浦は標準化と効率化を進め、徐々にインターナショナルスタイルの機能的、合理的、経済的な側面を取り入れていった。1935年に建てた土浦邸は、「白い箱」のモダニスト住宅だったが、ライト風の縦に積み重なるような空間が特徴的である。吹き抜けの開放的な居間の上方には細長いロフトがあり、4つの引き戸を通して居間から庭へとつながっている。
土浦邸では日本の伝統からはっきり離脱した陸屋根を用いているものの、この家の持つ多くの要素に魅力を感じていた崎谷は、それらを参考にしつつ、前川の好みに合うような設計をつくっていった。前川邸は、シンメトリーを明快に表現したようなかたちである。入口は北側で、玄関で靴を脱ぐ習慣の日本には珍しく、堅木を張った床に靴のまま上がることが想定されていた。崎谷によると、前川は車で移動することがほとんどだったため、靴が汚れることはなかったそうだ。(のちに室内では靴を脱ぐようになる。終戦直後の1945年8月、三浦美代との結婚がきっかけだろうか。)
玄関を入るとすぐ左に回転式の扉があり、その向こうに、この家の主役とも言える、リビングルームとサロンを兼ねた大きな居間がある。2階分の高さの窓がある解放的な空間で、コンテンポラリーな調度で整えられている。
部屋のなかにある階段を上がると、小さな中2階のロフトになっており、下の階に面して飾り棚がつくられている。ロフトの天井は、屋根がいちばん高くなるところに当たり、じゅうぶんな高さが確保されている。ロフトはおもに書斎として使われていたが、前川の家具デザインの保管場所でもあった。
このスペースには、土浦邸のロフトからだけでなく、アントニン・レーモンドが1933年に軽井沢に建てた「夏の家」の、粗削りな木の柱で支えられたロフトからの影響も見られるだろう。ただし、夏の家では階段ではなく曲線を描くスロープを通ってロフトに上がる仕組みになっていた。
南側の大きな部屋の雨戸は収納後に90度回転できる独創的な戸袋におさまり、90度回転して開口部を最大限に活用することができる。1941年当時は金属が不足していたため、引き戸のレールはブナ材でつくっている。北側にも同様に大きな窓があるほか、ロフト部分には出窓がある。これらの開口部のおかげで、部屋のなかにはさんさんと光が降りそそぐ。前庭から室内を通って裏庭へと、遮られることのない空間の流れがつくり出されている。
竣工当初は家の南と北に丸い柱があり、そこから前川はコルビュジエのピロティ(支柱)の概念を取り入れている、とされることもある。しかし設計をした崎谷によれば、前川もそう思っていたかもしれないが、実際のところは神道の聖地で20年ごとに社殿が建て替えられる伊勢神宮に影響を受けたものだと言う。崎谷は、この設計に着手する直前の1940年に伊勢神宮を訪れ、大きく心を動かされたと語っている。
前川邸を施工した大工棟梁は、土浦とも仕事をしていた人物だった。伊勢神宮の棟持ち柱(またはコルビュジエのピロティ)にインスピレーションを受けた柱を、家の南面の中央に1本、北面にはそれよりも短いものを1本立てている。
前川邸を施工した大工棟梁は、土浦とも仕事をしていた人物だった。伊勢神宮の棟持ち柱(またはコルビュジエのピロティ)にインスピレーションを受けた柱を、家の南面の中央に1本、北面にはそれよりも短いものを1本立てている。
1945年5月、銀座にあった前川事務所が空襲で焼失してしまう。それから1954年までの9年間、上大崎の家を事務所として使っていた。ロフトの書斎には製図テーブルが4台しか入らなかったため、デスクや製図テーブルは居間にも流れ込み、1階の書斎は顧客とのミーティングルーム兼スタッフの休憩室として使われた。
前川夫妻は1956年にこの家の改修を始め、基礎を補強し、南側の丸柱を角柱に替えてⅩ字型のトラスを加えた。また、キッチンを拡張してバスルームを改修し(タイルも黒から茶色に変えた)、ガレージをつくっている。また、家族から受け継いで保管してあった美術品をいくつか持ってきたようで、1955年以降には居間のしっくい壁にミロやピカソ、棟方志功などの作品が飾られていたと言われる。
1973年、この敷地により大きな自邸を建てることにした前川は、この家を解体し、部材を軽井沢の別荘に保管していた。それから20年ほどが過ぎた1996年、良い状態のまま保たれていた部材をもとに、江戸東京たてもの園に前川邸が復元された。東洋の伝統と西洋のモダニズムの優れた要素を組み合わせて体現したような、じつに美しい建物であり、たてもの園のいちばんの見どころであり続けている。休館日は月曜日(月曜が祝日または振替休日の場合は、その翌日)。
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