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フランク・ロイド・ライトが日本の住宅建築に与えた大きな影響とは?【Part 1】
20世紀初頭に帝国ホテルの設計のために来日し、日本の若き建築家たちに多大な影響を与えたフランク・ロイド・ライト。大型の公共建築にとどまらず、住宅デザインにおいても、現在に至るまで、ライトの影響は力強く息づいています。

Karen Severns
2022年3月26日
Houzz Contributor. Writer, educator, filmmaker, archi-fanatic
私は10年以上前に、フランク・ロイド・ライトについてのドキュメンタリー映画『偉大なるオブセッション:フランク・ロイド・ライト/建築と日本 』を制作した。この映画は、ライトが日本の建築家に対して国内の先人たちと同じくらい深い影響を与えていることを伝え、また証明しようという試みだった。
もちろん、「影響」という概念はなかなか定義が難しいものだ。自身の作品の先駆けとなる作品の存在を認めたがるアーティストはまずいないだろう。ライトも、彼にとって最大のインスピレーションのもととなったのは、日本の芸術や美意識であって建築ではない、と主張している。1880年代の末から、ライトは日本の浮世絵とその洗練された芸術表現に心を奪われ、日本のデザインがもつ「有機的な性質」を高く評価していた。日本の芸術は、大地に親しく、その土地の生活や仕事に根差して生まれたものであり、どんな西洋文明よりも私の考える『モダン』に近いのだ。
その後、20世紀初頭になるとライトは日本に来て仕事をし、母国の次に愛した日本に、後年まで多大な影響を残すことになる。ライトのアシスタントとして働いていたアプレンティス(弟子)の建築家たちは、のちに自らの作品においてもライトの理想を引き継ぎ、それが日本の建築界およびその後の世代の建築家のなかに消えることのない影響を与え、広がっていく。そしてライトの建築哲学は、今も、歴史的な建築物だけでなく、日本の現代住宅の中に生き続けている。
もちろん、「影響」という概念はなかなか定義が難しいものだ。自身の作品の先駆けとなる作品の存在を認めたがるアーティストはまずいないだろう。ライトも、彼にとって最大のインスピレーションのもととなったのは、日本の芸術や美意識であって建築ではない、と主張している。1880年代の末から、ライトは日本の浮世絵とその洗練された芸術表現に心を奪われ、日本のデザインがもつ「有機的な性質」を高く評価していた。日本の芸術は、大地に親しく、その土地の生活や仕事に根差して生まれたものであり、どんな西洋文明よりも私の考える『モダン』に近いのだ。
その後、20世紀初頭になるとライトは日本に来て仕事をし、母国の次に愛した日本に、後年まで多大な影響を残すことになる。ライトのアシスタントとして働いていたアプレンティス(弟子)の建築家たちは、のちに自らの作品においてもライトの理想を引き継ぎ、それが日本の建築界およびその後の世代の建築家のなかに消えることのない影響を与え、広がっていく。そしてライトの建築哲学は、今も、歴史的な建築物だけでなく、日本の現代住宅の中に生き続けている。
安藤広重「京都名所之内 四条河原夕涼」1853、木版画。写真提供: フランク・ロイド・ライト財団
ライトの有機的建築
1893年、シカゴに初めて設計事務所を開設したときから、ライトは日本の「無駄なものを省く」という考え方に刺激された「有機的建築」を発展させはじめていた。ライトの手掛けたプレーリースタイルの家は、一見すると日本の伝統建築との類似性はほとんどないように見えるが、ヒューマンスケール、シンプルを旨とするデザイン、暖かなアーストーンの色、自然素材の重視、家と庭の一体感など、建築をめぐるて考え方における共通点がが否定しようなく存在している。
ライトの有機的建築
1893年、シカゴに初めて設計事務所を開設したときから、ライトは日本の「無駄なものを省く」という考え方に刺激された「有機的建築」を発展させはじめていた。ライトの手掛けたプレーリースタイルの家は、一見すると日本の伝統建築との類似性はほとんどないように見えるが、ヒューマンスケール、シンプルを旨とするデザイン、暖かなアーストーンの色、自然素材の重視、家と庭の一体感など、建築をめぐるて考え方における共通点がが否定しようなく存在している。
フランク・ロイド・ライトが描いたクーンレイ邸のスケッチ。ヴァスムート・ポートフォリオのリトグラフ (“Ausgeführte Bauten und Entwürfe von Frank Lloyd Wright")、1910年。写真提供: フランク・ロイド・ライト財団
住宅建築に革命を起こす
水平方向に低く広がり、大地に寄り添うライトの住宅は、物質的にも意識的にも、アメリカ中西部におけるプレーリー地帯の風景に溶け込んでいる。開放的な十字型のデザインは、いかにもアメリカ的なダイナミックな手法で、空間と人の動きを自由に解き放ち、親密でありながら広々とした空間を生み出している。もうひとつアメリカ的といえるのが、ライトの暖炉に対する配慮である。ライトは家の中心に暖炉を配置して、家族生活の核として位置付けた。また、ケイム組みステンドグラス窓を壁に並べて「光のスクリーン」を演出したり、カンチレバー(片持ち梁)をこれほど好んで活用したのもライトが初めてだった。
ライトが生涯貫いた「住宅は実用的で美しく生活を豊かにしてくれるものであるべきだ」という考えは、今まで以上に快適でサステナブルでエネルギー効率の良い家づくりが世界的な建築課題となっている今、さらに我々の心に深く響く。
現代日本に目を向けると、妹島和世、隈研吾、手塚貴晴らが手掛ける住宅のなかに、ライトが住宅建築において成し遂げた革命が今も強く影響を与えている。彼らもライトと同じく、風土や環境の影響に配慮して入念に配置を考え、革新的な建設手法やテクノロジーの活用、独自のビジョンといった点が高く評価されている建築家たちだ。
住宅建築に革命を起こす
水平方向に低く広がり、大地に寄り添うライトの住宅は、物質的にも意識的にも、アメリカ中西部におけるプレーリー地帯の風景に溶け込んでいる。開放的な十字型のデザインは、いかにもアメリカ的なダイナミックな手法で、空間と人の動きを自由に解き放ち、親密でありながら広々とした空間を生み出している。もうひとつアメリカ的といえるのが、ライトの暖炉に対する配慮である。ライトは家の中心に暖炉を配置して、家族生活の核として位置付けた。また、ケイム組みステンドグラス窓を壁に並べて「光のスクリーン」を演出したり、カンチレバー(片持ち梁)をこれほど好んで活用したのもライトが初めてだった。
ライトが生涯貫いた「住宅は実用的で美しく生活を豊かにしてくれるものであるべきだ」という考えは、今まで以上に快適でサステナブルでエネルギー効率の良い家づくりが世界的な建築課題となっている今、さらに我々の心に深く響く。
現代日本に目を向けると、妹島和世、隈研吾、手塚貴晴らが手掛ける住宅のなかに、ライトが住宅建築において成し遂げた革命が今も強く影響を与えている。彼らもライトと同じく、風土や環境の影響に配慮して入念に配置を考え、革新的な建設手法やテクノロジーの活用、独自のビジョンといった点が高く評価されている建築家たちだ。
浅草の錦絵
西洋と東洋が混在する浅草。写真提供:江戸東京博物館
日本に目を向けるライト
1905年、ライトが初来日したころには、封建社会がほぼ消滅し、西洋の抱いていた「エギゾチックな日本」の要素は大半が消え去ろうとしていた。300年近くにわたる鎖国が1868年の明治維新で幕を閉じ、日本は文明開化と西洋化に向かっていた。
のちにライトは日本の欧風建築を激しく非難することになるのだが(「粗悪なオリジナルを粗悪な技術でコピーした粗悪な複製品」)、この時期はまだ日本を、地上で「もっともロマンチックでもっとも美しい」場所だと讃えていた。1910年代初頭に私生活のスキャンダルのためにアメリカでの建築家としてのキャリアが暗礁に乗り上げるなか来日し、東京で帝国ホテル新館を建設する仕事に没頭した。
西洋と東洋が混在する浅草。写真提供:江戸東京博物館
日本に目を向けるライト
1905年、ライトが初来日したころには、封建社会がほぼ消滅し、西洋の抱いていた「エギゾチックな日本」の要素は大半が消え去ろうとしていた。300年近くにわたる鎖国が1868年の明治維新で幕を閉じ、日本は文明開化と西洋化に向かっていた。
のちにライトは日本の欧風建築を激しく非難することになるのだが(「粗悪なオリジナルを粗悪な技術でコピーした粗悪な複製品」)、この時期はまだ日本を、地上で「もっともロマンチックでもっとも美しい」場所だと讃えていた。1910年代初頭に私生活のスキャンダルのためにアメリカでの建築家としてのキャリアが暗礁に乗り上げるなか来日し、東京で帝国ホテル新館を建設する仕事に没頭した。
フランク・ロイド・ライト(前列、右から3人目)と帝国ホテルのチーム。1921年。写真提供:フランク・ロイド・ライト肘団、コロンピア大学モダンアート/エイヴリー建築•美術図書館
第一世代の弟子たち
1917年から1922年にかけて、帝国ホテルを設計する事務所でライトを緊密にサポートしていた十数名の青年たちが、ライトの日本における弟子の「第一世代」である。この中で、ライトから受けた直接的な影響を基盤として、順調にキャリアを築いていった建築家が4名いる。 遠藤新( 写真、前列左から2人目の白い服)、アントニン・レーモンド(前列左端)、土浦亀城(前列中央の明るい色のスーツ。前列左から3人目の現場監習のポール・ミュラーとライトの間)、そして田上義也である 。彼らはのちに、それぞれが名作建築を作り出し、日本の街並みを変えていっただけでなく、次の世代の建築家たちの師としても活躍することになる。そこからさらに次の世代、また次の世代へと、影響は引き継がれていった。
ライトと、大体において彼と同じ方向に進んだと言える4世代の建築家たちは、伝統とモダン、日本と西洋、という異なる世界の優れた部分の融合を実現していった。時代の流れに沿って彼らの足取りを辿っていくと、ライトが直接的・間接的に及ぼした影響が、ダイナミックな一筋の力強い線として現れ、各時代の建築をつなぐものが明確に見えてくる。
第一世代の弟子たち
1917年から1922年にかけて、帝国ホテルを設計する事務所でライトを緊密にサポートしていた十数名の青年たちが、ライトの日本における弟子の「第一世代」である。この中で、ライトから受けた直接的な影響を基盤として、順調にキャリアを築いていった建築家が4名いる。 遠藤新( 写真、前列左から2人目の白い服)、アントニン・レーモンド(前列左端)、土浦亀城(前列中央の明るい色のスーツ。前列左から3人目の現場監習のポール・ミュラーとライトの間)、そして田上義也である 。彼らはのちに、それぞれが名作建築を作り出し、日本の街並みを変えていっただけでなく、次の世代の建築家たちの師としても活躍することになる。そこからさらに次の世代、また次の世代へと、影響は引き継がれていった。
ライトと、大体において彼と同じ方向に進んだと言える4世代の建築家たちは、伝統とモダン、日本と西洋、という異なる世界の優れた部分の融合を実現していった。時代の流れに沿って彼らの足取りを辿っていくと、ライトが直接的・間接的に及ぼした影響が、ダイナミックな一筋の力強い線として現れ、各時代の建築をつなぐものが明確に見えてくる。
写真:森晃一
1. フランク・ロイド・ライトと遠藤新
1917年1月、ライトは再び来日し、帝国ホテルプロジェクトの形が固まるまで、東京でも生活するようになった。この年から6年にわたり、右腕となった東京帝国大学(現・東京大学)出身の遠藤新に支えられ、ライトは帝国ホテルに加えて個人邸宅6件を含む13件の設計プロジェクトを日本国内で手掛けている。帝国ホテルに携わる製図技師の多くを選考し、集めたのは遠藤だった。遠藤は1917年から1918年にかけて、米国ウィスコンシン州にあるライトの自宅兼事務所であるタリアセンで過ごし、 帝国ホテルプロジェクトだけでなく、ほかのプロジェクトにも携わっている 。ライトが1922年に米国に戻ってしまってからは、帝国ホテルと自由学園の完成まで指揮を取り、後者では設計者としてライトと名を連ねている。
ライトが日本で設計した6つの邸宅プロジェクトのうち、実際に建てられたのは、林愛作邸、福原有信邸、山邑太左衛門邸の3つだった。(福原邸は1923年の関東大震災で倒壊した。)
林邸
設計・フランク・ロイド・ライト
ライトにとって北米以外で初となる住宅プロジェクトは、1917年、帝国ホテル支配人の林愛作とその大家族が暮らすための家の設計だった。林はアメリカの高校に通い、その後何年間もアメリカで働いた経験があったため、欧米風の住宅で暮らすことは自然なことだった。
東京郊外の丘のふもとにたたずむ、平屋の木造建築(上)は、後期プレーリースタイルの作品だ。しかし銅葺きの屋根には、伝統的な神社建築の鰹木を思わせるような横木が棟に沿って配置されている。裏手の池に向かって開放的なリビングルームが広がり、その中心にあるのは、ラフな質感の大谷石の暖炉だ。大谷石は火山噴出物が堆積してできた凝灰岩で、ライトは帝国ホテルでも幾何学的デザインのアクセントとしてこの石を各所に使用している。
林はこの家を1923年に売りに出し、数名のオーナーの手を経て、1950年にある広告会社が来客用宿泊施設として購入した。その間に何度も改装が加えられ、今では、ほぼ手つかずで残っているのはリビングルームと池のみである。一般公開はされていない。
1. フランク・ロイド・ライトと遠藤新
1917年1月、ライトは再び来日し、帝国ホテルプロジェクトの形が固まるまで、東京でも生活するようになった。この年から6年にわたり、右腕となった東京帝国大学(現・東京大学)出身の遠藤新に支えられ、ライトは帝国ホテルに加えて個人邸宅6件を含む13件の設計プロジェクトを日本国内で手掛けている。帝国ホテルに携わる製図技師の多くを選考し、集めたのは遠藤だった。遠藤は1917年から1918年にかけて、米国ウィスコンシン州にあるライトの自宅兼事務所であるタリアセンで過ごし、 帝国ホテルプロジェクトだけでなく、ほかのプロジェクトにも携わっている 。ライトが1922年に米国に戻ってしまってからは、帝国ホテルと自由学園の完成まで指揮を取り、後者では設計者としてライトと名を連ねている。
ライトが日本で設計した6つの邸宅プロジェクトのうち、実際に建てられたのは、林愛作邸、福原有信邸、山邑太左衛門邸の3つだった。(福原邸は1923年の関東大震災で倒壊した。)
林邸
設計・フランク・ロイド・ライト
ライトにとって北米以外で初となる住宅プロジェクトは、1917年、帝国ホテル支配人の林愛作とその大家族が暮らすための家の設計だった。林はアメリカの高校に通い、その後何年間もアメリカで働いた経験があったため、欧米風の住宅で暮らすことは自然なことだった。
東京郊外の丘のふもとにたたずむ、平屋の木造建築(上)は、後期プレーリースタイルの作品だ。しかし銅葺きの屋根には、伝統的な神社建築の鰹木を思わせるような横木が棟に沿って配置されている。裏手の池に向かって開放的なリビングルームが広がり、その中心にあるのは、ラフな質感の大谷石の暖炉だ。大谷石は火山噴出物が堆積してできた凝灰岩で、ライトは帝国ホテルでも幾何学的デザインのアクセントとしてこの石を各所に使用している。
林はこの家を1923年に売りに出し、数名のオーナーの手を経て、1950年にある広告会社が来客用宿泊施設として購入した。その間に何度も改装が加えられ、今では、ほぼ手つかずで残っているのはリビングルームと池のみである。一般公開はされていない。
井上匡四郎邸のパース、1918年。模型:日本大学。写真提供:フランク・ロイド・ライト財団
井上邸
設計・フランク・ロイド・ライト
自ら工学博士であり、19世紀末から20世紀初頭にかけてをドイツとアメリカで暮らしており、ライトの評判もよく耳にしていた井上匡四郎子爵は、東京・目白の丘の上に建てる自邸の設計をライトに依頼。ライトは1918年に後期プレーリースタイルによるエレガントな2階建て邸宅を設計した。素材はレンガ、大谷石、構造は鉄筋コンクリートで、北東には平屋の翼、西側には畳敷きの和室を配置し、車3台ぶんのガレージと運転手の詰所もあった。しかしこの屋敷は、おそらくメンテナンス費用がかさむことが理由となり、建設が実現しなかった。
井上邸
設計・フランク・ロイド・ライト
自ら工学博士であり、19世紀末から20世紀初頭にかけてをドイツとアメリカで暮らしており、ライトの評判もよく耳にしていた井上匡四郎子爵は、東京・目白の丘の上に建てる自邸の設計をライトに依頼。ライトは1918年に後期プレーリースタイルによるエレガントな2階建て邸宅を設計した。素材はレンガ、大谷石、構造は鉄筋コンクリートで、北東には平屋の翼、西側には畳敷きの和室を配置し、車3台ぶんのガレージと運転手の詰所もあった。しかしこの屋敷は、おそらくメンテナンス費用がかさむことが理由となり、建設が実現しなかった。
後藤新平邸の立面図、1921年。模型:日本大学。写真提供:フランク・ロイド・ライト財団
後藤邸
設計・フランク・ロイド・ライト
内閣鉄道院の元総裁で、当時の東京市長であった後藤新平男爵の邸宅として、ライトは1921年に2階建て建築のスケッチを制作した。実現はしなかったが、こちらのスケッチと新たに作られた模型を見ると、プレーリースタイルを見事に応用していながら、公邸にふさわしい格式を作り出していることがわかる。 1階には大きなレセプションホールを配置して、その周りを庭を見渡せるロッジア(屋根付き柱廊)で縁どり、2階に私室を設ける計画だった。
後藤邸
設計・フランク・ロイド・ライト
内閣鉄道院の元総裁で、当時の東京市長であった後藤新平男爵の邸宅として、ライトは1921年に2階建て建築のスケッチを制作した。実現はしなかったが、こちらのスケッチと新たに作られた模型を見ると、プレーリースタイルを見事に応用していながら、公邸にふさわしい格式を作り出していることがわかる。 1階には大きなレセプションホールを配置して、その周りを庭を見渡せるロッジア(屋根付き柱廊)で縁どり、2階に私室を設ける計画だった。
写真提供:淀川製鋼所
山邑太左衛門邸(現・ヨドコウ迎賓館)
基本設計:フランク・ロイド・ライト
実施設計・施工監理:遠藤新
灘の裕福な酒造家であった八代目山邑太左衛門の別邸として建設されたこの住宅は、帝国ホテルの建設の遅延の影響により、ライトが基本設計を行ってから6年後にようやく完成した。1922年にライトが日本を去った後は、遠藤新が実施設計・施工の指揮を取り、1924年に竣工した。ライトと遠藤の両名が設計者としてクレジットされた作品としては2作目になる(1作目は1921年竣工の自由学園)。
山邑太左衛門邸(現・ヨドコウ迎賓館)
基本設計:フランク・ロイド・ライト
実施設計・施工監理:遠藤新
灘の裕福な酒造家であった八代目山邑太左衛門の別邸として建設されたこの住宅は、帝国ホテルの建設の遅延の影響により、ライトが基本設計を行ってから6年後にようやく完成した。1922年にライトが日本を去った後は、遠藤新が実施設計・施工の指揮を取り、1924年に竣工した。ライトと遠藤の両名が設計者としてクレジットされた作品としては2作目になる(1作目は1921年竣工の自由学園)。
写真提供:淀川製鋼所
大阪湾を見下ろす芦屋の丘の上に立つ屋敷は、ライトの卓越した空間構成力を感じさせる。4階建てなのだが、どこをとっても2階以上の高さがある部分はないのだ。「エッシャーのだまし絵のような家なんです」と作家のアレックス・カーは笑う。1970年代に短期間だが空き家になっていた時期があり、カーは屋敷に忍び込んで探検していたそうだ。「階段を上がって来たはずなのに、さっきより地面の近くにいる、という具合です。」
大阪湾を見下ろす芦屋の丘の上に立つ屋敷は、ライトの卓越した空間構成力を感じさせる。4階建てなのだが、どこをとっても2階以上の高さがある部分はないのだ。「エッシャーのだまし絵のような家なんです」と作家のアレックス・カーは笑う。1970年代に短期間だが空き家になっていた時期があり、カーは屋敷に忍び込んで探検していたそうだ。「階段を上がって来たはずなのに、さっきより地面の近くにいる、という具合です。」
写真提供:淀川製鋼所
丘の斜面と一体化させることで、この敷地から見える三方の風景を最大限にとりこみつつ、すばらしい風通しも確保している。外観は、このころライトが設計を手がけていたロサンゼルスのエイリーン・バーンズドール邸(ホリーホック邸)を思わせるが、装飾的なブロックはコンクリートではなく大谷石製である。
遠藤はライトのスケッチをもとに実施設計図を作成。最終形では畳とふすまの和室を3部屋追加されている。さらに、2階の応接室には、窓で外の景色を絵画のように切り取って、借景を作っている。
3階の和室の外を通る廊下には外開き扉がずらりと並ぶ。扉を飾るのは、飾り銅板と木を使った四角いモチーフで、このディテールは家の随所に見られる。毎日、太陽がこの西側の壁を照らしながら移動するにつれて、美しい視覚的効果を生み出した。
遠藤はライトのスケッチをもとに、障子、漆喰と竹の壁を使った和室3室を含む家の設計を仕上げた。2階のサロンでは、絵画のような窓で外の景色を切り取っている。
3階の和室の外の廊下には、両開きドアが並び、そのひとつひとつが緑青と木の美しいスクエアモチーフのバリエーションがデザインされている。南に面しているので、太陽の動きとともに、毎日異なる光のシンフォニーが生まれる空間となっている。
丘の斜面と一体化させることで、この敷地から見える三方の風景を最大限にとりこみつつ、すばらしい風通しも確保している。外観は、このころライトが設計を手がけていたロサンゼルスのエイリーン・バーンズドール邸(ホリーホック邸)を思わせるが、装飾的なブロックはコンクリートではなく大谷石製である。
遠藤はライトのスケッチをもとに実施設計図を作成。最終形では畳とふすまの和室を3部屋追加されている。さらに、2階の応接室には、窓で外の景色を絵画のように切り取って、借景を作っている。
3階の和室の外を通る廊下には外開き扉がずらりと並ぶ。扉を飾るのは、飾り銅板と木を使った四角いモチーフで、このディテールは家の随所に見られる。毎日、太陽がこの西側の壁を照らしながら移動するにつれて、美しい視覚的効果を生み出した。
遠藤はライトのスケッチをもとに、障子、漆喰と竹の壁を使った和室3室を含む家の設計を仕上げた。2階のサロンでは、絵画のような窓で外の景色を切り取っている。
3階の和室の外の廊下には、両開きドアが並び、そのひとつひとつが緑青と木の美しいスクエアモチーフのバリエーションがデザインされている。南に面しているので、太陽の動きとともに、毎日異なる光のシンフォニーが生まれる空間となっている。
写真提供:淀川製鋼所
山邑邸は、日本建築と西洋建築が真に融合したと言える最初の例であった。「ライトの日本での活動について言えば、遠藤新の貢献がいちばん大きかったと思います」と、フランク・ロイド・ライト財団に所属する建築史家のマーゴ・スタイプは話す。「遠藤は、ライトの活動を心から信頼していました。日本の伝統建築との関わり、ライトの建築と日本建築をつなぎ、融合し、有機的建築という、今につらなる伝統をつくりだす点で、大いに貢献したのです。」
淀川鉄鋼所が1947年にこの家を購入し、1974年には大正時代の建物として初めて国の重要文化財に指定された。淀川製鋼所は1980年代に多額の費用をかけてこの家を修復し、その後は同社の迎賓館として使用していた。現在は「ヨドコウ迎賓館」として、指定日に一般公開されている。
山邑邸は、日本建築と西洋建築が真に融合したと言える最初の例であった。「ライトの日本での活動について言えば、遠藤新の貢献がいちばん大きかったと思います」と、フランク・ロイド・ライト財団に所属する建築史家のマーゴ・スタイプは話す。「遠藤は、ライトの活動を心から信頼していました。日本の伝統建築との関わり、ライトの建築と日本建築をつなぎ、融合し、有機的建築という、今につらなる伝統をつくりだす点で、大いに貢献したのです。」
淀川鉄鋼所が1947年にこの家を購入し、1974年には大正時代の建物として初めて国の重要文化財に指定された。淀川製鋼所は1980年代に多額の費用をかけてこの家を修復し、その後は同社の迎賓館として使用していた。現在は「ヨドコウ迎賓館」として、指定日に一般公開されている。
写真:久野和作
近藤邸
設計:遠藤新
教会のつながりから、遠藤新は朝日アスベスト社長でかつて台湾総督府民生長官の後藤新平の秘書をつとめた近藤賢二の知遇を得た。11人の子どもがいた近藤は、神奈川県辻堂に広大な敷地をもっており、遠藤に週末用別荘の設計を依頼した。近藤はライトの設計手法にならい、敷地の北側にある大きな池の隣にL型の住宅を設計し、家と敷地をシームレスに融合させた。ライトと同じく、遠藤も家具調度や照明をすべて設計し、完全に統合性のある空間を実現した。
近藤邸
設計:遠藤新
教会のつながりから、遠藤新は朝日アスベスト社長でかつて台湾総督府民生長官の後藤新平の秘書をつとめた近藤賢二の知遇を得た。11人の子どもがいた近藤は、神奈川県辻堂に広大な敷地をもっており、遠藤に週末用別荘の設計を依頼した。近藤はライトの設計手法にならい、敷地の北側にある大きな池の隣にL型の住宅を設計し、家と敷地をシームレスに融合させた。ライトと同じく、遠藤も家具調度や照明をすべて設計し、完全に統合性のある空間を実現した。
写真:久野和作
2階は、畳と障子の和室書斎があり、1階は和室が3つと西洋風のリビングダイニングがある。リビングダイニングの中心となっているのは、ライトと遠藤が帝国ホテルや自由学園、山邑邸で取り入れたものに似た、大谷石の大きな暖炉である。1925年にツーバイフォー工法により竣工した家で、屋根は軽量な栗こば葺きの寄棟だ。家の裏手には藤棚のあるテラスもあった。
この屋敷は取り壊しの危機を奇跡的に乗り越え、1983年に藤沢市民会館の敷地内に移築された。現在は「旧近藤邸」として一般公開されている。
2階は、畳と障子の和室書斎があり、1階は和室が3つと西洋風のリビングダイニングがある。リビングダイニングの中心となっているのは、ライトと遠藤が帝国ホテルや自由学園、山邑邸で取り入れたものに似た、大谷石の大きな暖炉である。1925年にツーバイフォー工法により竣工した家で、屋根は軽量な栗こば葺きの寄棟だ。家の裏手には藤棚のあるテラスもあった。
この屋敷は取り壊しの危機を奇跡的に乗り越え、1983年に藤沢市民会館の敷地内に移築された。現在は「旧近藤邸」として一般公開されている。
写真:森晃一
加地邸
設計・遠藤新
長年のロンドン暮らしから日本に戻ったばかりの貿易商・加地利夫は、豪華な邸宅を東京に、ひろびろとした休暇用別荘を神奈川県葉山の海辺に建てるため、設計を遠藤に依頼した。1928年に完成した別荘には、木としっくいと大谷石を用い、屋根は銅板葺きの切妻とした。2階の展望室の上に突き出した長く張り出した水平ルーバー式の庇は、相模湾に向かって伸びており、ライトのタリアセンの家をほうふつとさせるデザインだ。
加地邸
設計・遠藤新
長年のロンドン暮らしから日本に戻ったばかりの貿易商・加地利夫は、豪華な邸宅を東京に、ひろびろとした休暇用別荘を神奈川県葉山の海辺に建てるため、設計を遠藤に依頼した。1928年に完成した別荘には、木としっくいと大谷石を用い、屋根は銅板葺きの切妻とした。2階の展望室の上に突き出した長く張り出した水平ルーバー式の庇は、相模湾に向かって伸びており、ライトのタリアセンの家をほうふつとさせるデザインだ。
加地邸のかつてのリビングルームの写真。写真提供: 樋口清
急な丘の斜面に立っているため、ボリュームが重なり合って複雑な空間を作り出しており、それがまた魅力となっている点は、山邑邸にも共通する。玄関から数段上がると、1階の大谷石の暖炉があるリビングルームに入るか、またはキッチンに入って食堂へと抜ける。さらに少し階段を上がるとビリヤードルームで、ここにも大谷石の暖炉と、ライトが好んだイングルヌック(暖炉ばたの団らんスペース)がある。リビングの両側には天井の形態そのままの額縁にした中二階のギャラリーがあり、そこからリビングのようすが見下ろせる。そこからもう1つ階を上がると寝室だ。
この家は、加地家が数世代にわたって大切に住み継いできた。現在は住宅遺産トラストが管理しており、一般公開の機会ももうけている。
急な丘の斜面に立っているため、ボリュームが重なり合って複雑な空間を作り出しており、それがまた魅力となっている点は、山邑邸にも共通する。玄関から数段上がると、1階の大谷石の暖炉があるリビングルームに入るか、またはキッチンに入って食堂へと抜ける。さらに少し階段を上がるとビリヤードルームで、ここにも大谷石の暖炉と、ライトが好んだイングルヌック(暖炉ばたの団らんスペース)がある。リビングの両側には天井の形態そのままの額縁にした中二階のギャラリーがあり、そこからリビングのようすが見下ろせる。そこからもう1つ階を上がると寝室だ。
この家は、加地家が数世代にわたって大切に住み継いできた。現在は住宅遺産トラストが管理しており、一般公開の機会ももうけている。
2. アントニン・レーモンド:東西折衷の革新的なモダニスト建築家
日本におけるライトの弟子の第1世代のなかには、チェコ生まれでアメリカに帰化したアントニン・レーモンドもいた。フランス生まれのアーティストである妻のノエミ・ペルネッサン・レーモンドとともに、ライトと仕事をすることを夢見ていたレーモンドは、1916年に夢をかなえて、タリアセンで働き始める。タリアセンでは、建設方法を体系化した経済的な「アメリカン・モデル」住宅(ユーソニアン住宅の前身)のスケッチのほか、帝国ホテルの透視図の制作にも携わっていた。夫妻がライトから学んだのは、省略という日本的な美意識と、人間と自然との流動的なつながりであった。1919年、ライトから日本で帝国ホテル建設の手伝いを頼まれると、2人は即座に引き受けた。
レーモンド夫妻が帝国ホテルプロジェクトに関わったのはわずか1年間だったが、日本には40年以上住み続け、400件を超す設計を手掛けることになる。ライトと同じく家具や照明もデザインしていた。また、有機的な建築とは「simple(単純さ)、honest(正直さ)、 direct(直截さ)、 economical(経済性)、 natural(自然さ)」の原則に従うべきであるという理念を打ち出していた。ライトのもとを離れてから、レーモンドは、現場打ちの鉄筋コンクリートを使って日本の伝統的木造建築を思わせるディテールを作り出す試みを始めた。
やがて、海外から帰国したばかりの日本人建築家を雇い入れたことで、レーモンドは西洋建築の最新流行を日本の建築界に伝える役割も果たすようになった。師であるライトが行ったのと同じように、レーモンドは、吉村順三やパリでル・コルビュジェと2年間仕事をしていた前川固男といった弟子たちとともに、日本の伝統の持つ可能性を、日本の建築家たちに気づかせていったのだ。こうして1930年代初頭には、彼らは東西折衷のモダニズムと言える独自のスタイルを生み出していた。
イタリア大使館別荘
設計・アントニン・レーモンド
当時人気を誇った避暑地、日光・中禅寺湖畔に立つイタリア大使館別荘は、レーモンドが手がけた2つ目の木造建築である。レーモンドが日本の伝統建築をとりいれた実験に取り組み始めたころの1929年に竣工しているが、地産材を使用したのはこの作品限りである。外装は杉皮張りとし、内装の天井や壁にも同じ素材を網代に組んでおり、美しい模様を描き出しつつ周囲の自然環境と見事に溶け合っている。1階には素朴な暖炉のある広間があり、湖側のポーチからは、湖面越しにはるかな山脈を見渡すすばらしい景色が広がる。
日本におけるライトの弟子の第1世代のなかには、チェコ生まれでアメリカに帰化したアントニン・レーモンドもいた。フランス生まれのアーティストである妻のノエミ・ペルネッサン・レーモンドとともに、ライトと仕事をすることを夢見ていたレーモンドは、1916年に夢をかなえて、タリアセンで働き始める。タリアセンでは、建設方法を体系化した経済的な「アメリカン・モデル」住宅(ユーソニアン住宅の前身)のスケッチのほか、帝国ホテルの透視図の制作にも携わっていた。夫妻がライトから学んだのは、省略という日本的な美意識と、人間と自然との流動的なつながりであった。1919年、ライトから日本で帝国ホテル建設の手伝いを頼まれると、2人は即座に引き受けた。
レーモンド夫妻が帝国ホテルプロジェクトに関わったのはわずか1年間だったが、日本には40年以上住み続け、400件を超す設計を手掛けることになる。ライトと同じく家具や照明もデザインしていた。また、有機的な建築とは「simple(単純さ)、honest(正直さ)、 direct(直截さ)、 economical(経済性)、 natural(自然さ)」の原則に従うべきであるという理念を打ち出していた。ライトのもとを離れてから、レーモンドは、現場打ちの鉄筋コンクリートを使って日本の伝統的木造建築を思わせるディテールを作り出す試みを始めた。
やがて、海外から帰国したばかりの日本人建築家を雇い入れたことで、レーモンドは西洋建築の最新流行を日本の建築界に伝える役割も果たすようになった。師であるライトが行ったのと同じように、レーモンドは、吉村順三やパリでル・コルビュジェと2年間仕事をしていた前川固男といった弟子たちとともに、日本の伝統の持つ可能性を、日本の建築家たちに気づかせていったのだ。こうして1930年代初頭には、彼らは東西折衷のモダニズムと言える独自のスタイルを生み出していた。
イタリア大使館別荘
設計・アントニン・レーモンド
当時人気を誇った避暑地、日光・中禅寺湖畔に立つイタリア大使館別荘は、レーモンドが手がけた2つ目の木造建築である。レーモンドが日本の伝統建築をとりいれた実験に取り組み始めたころの1929年に竣工しているが、地産材を使用したのはこの作品限りである。外装は杉皮張りとし、内装の天井や壁にも同じ素材を網代に組んでおり、美しい模様を描き出しつつ周囲の自然環境と見事に溶け合っている。1階には素朴な暖炉のある広間があり、湖側のポーチからは、湖面越しにはるかな山脈を見渡すすばらしい景色が広がる。
写真提供:北澤興一
夏の家
設計・アントニン・レーモンド
1933年、レーモンドは、ル・コルビュジェが設計したものの実現しなかったエラズリス邸の案を借用して、軽井沢に別荘兼アトリエを建てた。東西の融合が情緒深く印象的な家である。基盤はコンクリートだが、木造で、屋根はカラマツで葺いている。T型平面の建物内は壁による仕切りがなく、引き戸によって屋内から屋外、また屋内へと常に空間の流れが作られる。残念なことに、夏の家は移築されてかなり趣を変えてしまったが、ペイネ美術館として一般公開されている。
夏の家
設計・アントニン・レーモンド
1933年、レーモンドは、ル・コルビュジェが設計したものの実現しなかったエラズリス邸の案を借用して、軽井沢に別荘兼アトリエを建てた。東西の融合が情緒深く印象的な家である。基盤はコンクリートだが、木造で、屋根はカラマツで葺いている。T型平面の建物内は壁による仕切りがなく、引き戸によって屋内から屋外、また屋内へと常に空間の流れが作られる。残念なことに、夏の家は移築されてかなり趣を変えてしまったが、ペイネ美術館として一般公開されている。
写真:久野和作
3. 土浦亀城、住宅環境の標準化を目指したパイオニア
ライトの第一世代の弟子の中には、当時まだ学生だった1921年から帝国ホテルの仕事に関わった土浦亀城もいた。翌年、ライトが日本を離れると、土浦と新妻の信(のぶ)もすぐに後を追った。夫妻はロサンゼルスとタリアセンでライトとともに2年間過ごし、テキスタイル・ブロック・ハウス(ストラー邸、フリーマン邸 、エニス邸)のスケッチを手掛けたほか、複数のプロジェクトに携わり、同時期にライトのもとで学んでいたリチャード・ノイトラ、R・M・シンドラー、ヴェルナー・モーザーとも親交を深めた。
1926年に日本に戻った土浦は、ライトの手法に沿って設計を続けたが、住宅環境の改善に興味を持ち、そのころ興りつつあったインターナショナル・スタイルの機能性、合理性、経済性に共感して徐々に傾倒していく。テキスタイル・ブロック・ハウスからヒントを得ながらも、ブロックを木造の骨組みと石綿スレートパネルに置き換え、標準化と効率化を追求した。
土浦邸
設計・土浦亀城
土浦が設計した作品のなかでもっとも有名な住宅建築となったのが、1935年に東京西部に建てた自邸(上)である。空間を積み重ねた構成、吹き抜けのリビング、庭とのつながり、といった点にはライトの影響が色濃く見えるものの、まさにモダニズムに特徴的な「白い箱」の住宅であった(インテリアは遊び心あふれるカラフルなものだったが)。日本の気候に適した寄棟屋根ではなく、陸屋根を選んだのは、古きものと決別し、新しきものを迎えるためだった。
3. 土浦亀城、住宅環境の標準化を目指したパイオニア
ライトの第一世代の弟子の中には、当時まだ学生だった1921年から帝国ホテルの仕事に関わった土浦亀城もいた。翌年、ライトが日本を離れると、土浦と新妻の信(のぶ)もすぐに後を追った。夫妻はロサンゼルスとタリアセンでライトとともに2年間過ごし、テキスタイル・ブロック・ハウス(ストラー邸、フリーマン邸 、エニス邸)のスケッチを手掛けたほか、複数のプロジェクトに携わり、同時期にライトのもとで学んでいたリチャード・ノイトラ、R・M・シンドラー、ヴェルナー・モーザーとも親交を深めた。
1926年に日本に戻った土浦は、ライトの手法に沿って設計を続けたが、住宅環境の改善に興味を持ち、そのころ興りつつあったインターナショナル・スタイルの機能性、合理性、経済性に共感して徐々に傾倒していく。テキスタイル・ブロック・ハウスからヒントを得ながらも、ブロックを木造の骨組みと石綿スレートパネルに置き換え、標準化と効率化を追求した。
土浦邸
設計・土浦亀城
土浦が設計した作品のなかでもっとも有名な住宅建築となったのが、1935年に東京西部に建てた自邸(上)である。空間を積み重ねた構成、吹き抜けのリビング、庭とのつながり、といった点にはライトの影響が色濃く見えるものの、まさにモダニズムに特徴的な「白い箱」の住宅であった(インテリアは遊び心あふれるカラフルなものだったが)。日本の気候に適した寄棟屋根ではなく、陸屋根を選んだのは、古きものと決別し、新しきものを迎えるためだった。
プリツカー賞受賞建築家の槇文彦はこう語る。「土浦亀城邸にたまたま訪問する機会があったのは、ちょうど7歳ぐらいのことです 。 中に入った時に、空間体験は強烈で、今でも良く覚えています。その時の経験がもう一度自分の中で反芻されて理解も深まっていったわけですね。 土浦邸は、ライトの帝国ホテルのような空間の面白さでは影響を受けている。建築の素材、あるいはその表現の仕方はモダニズムのものなんですね 。」
のちに土浦は、商業施設の建築で名を馳せたが、彼の住宅設計における「妥協的モダニズム」は静かに浸透し、日本の住宅建築に広がるスタイルとなっていくのである。
のちに土浦は、商業施設の建築で名を馳せたが、彼の住宅設計における「妥協的モダニズム」は静かに浸透し、日本の住宅建築に広がるスタイルとなっていくのである。
写真:森晃一
4. 田上義也、北海道モダニズム建築の父
もう1人、ライトの弟子の第一世代であった田上義也は、ライトが去ったあとも帝国ホテルの仕事を続けた。1923年、ホテルの開業披露当日に関東大震災が襲ったときには、遠藤新と一緒にいたという。北海道へと向かう決意をした田上に、ライトは次のような励ましの手紙を贈っている。「日本は、建築の良心に目覚めた若者たちの力を必要としています。もし、君たちの何人かが私によってそれに目覚めたとすれば、ありがたいと思います。偉大な仕事のなかでは、重要でない役目など存在しないのです。」
田上は1924年に札幌に建築事務所を開設した。初期の作品は、屋根のデザインや幾何学的装飾、窓を使った美しい「光のスクリーン」などにライトの影響が見える。しかし1930年代になると「雪国的造形」の確立に向かい、雪深い気候を考慮した住宅作りを始める。それから800件もの設計を手掛け、今では北海道モダニズム建築の父と呼ばれるようになった。
小熊邸
設計・田上義也
札幌市、藻岩山のふもとにある瀟洒な小熊邸は、田上が1927年に建てた住宅だ。北側を鉄道が走っているため、北側にキッチンとユーティリティルームを配置している。玄関のドアを開けるとすぐに広間になっており、背の高い鉛フレームの飾りガラス窓がある。2階建ての木造建築で、水平を強調したラインや十字型平面は、まさにライト風だ。だが、田上独自のスタイルが、幾何学邸な照明、小さな窓、窓まわりの装飾などに表れはじめている。
4. 田上義也、北海道モダニズム建築の父
もう1人、ライトの弟子の第一世代であった田上義也は、ライトが去ったあとも帝国ホテルの仕事を続けた。1923年、ホテルの開業披露当日に関東大震災が襲ったときには、遠藤新と一緒にいたという。北海道へと向かう決意をした田上に、ライトは次のような励ましの手紙を贈っている。「日本は、建築の良心に目覚めた若者たちの力を必要としています。もし、君たちの何人かが私によってそれに目覚めたとすれば、ありがたいと思います。偉大な仕事のなかでは、重要でない役目など存在しないのです。」
田上は1924年に札幌に建築事務所を開設した。初期の作品は、屋根のデザインや幾何学的装飾、窓を使った美しい「光のスクリーン」などにライトの影響が見える。しかし1930年代になると「雪国的造形」の確立に向かい、雪深い気候を考慮した住宅作りを始める。それから800件もの設計を手掛け、今では北海道モダニズム建築の父と呼ばれるようになった。
小熊邸
設計・田上義也
札幌市、藻岩山のふもとにある瀟洒な小熊邸は、田上が1927年に建てた住宅だ。北側を鉄道が走っているため、北側にキッチンとユーティリティルームを配置している。玄関のドアを開けるとすぐに広間になっており、背の高い鉛フレームの飾りガラス窓がある。2階建ての木造建築で、水平を強調したラインや十字型平面は、まさにライト風だ。だが、田上独自のスタイルが、幾何学邸な照明、小さな窓、窓まわりの装飾などに表れはじめている。
写真:角幸博
リビングスペースは、長い冬のあいだも太陽の熱を取り込めるよう南向きになっている。2階のアトリエは、高い窓と木の梁が印象的だ。この風土に合わせてスタイルを変化させていく試みの始まりと言えるだろう。
日本の歴史的建造物としては珍しく、小熊邸は地元の草の根運動により保存され、1998年にオリジナルのデザインに復元された。現在は、人気コーヒーショップ「ろいず珈琲館」として営業している。
リビングスペースは、長い冬のあいだも太陽の熱を取り込めるよう南向きになっている。2階のアトリエは、高い窓と木の梁が印象的だ。この風土に合わせてスタイルを変化させていく試みの始まりと言えるだろう。
日本の歴史的建造物としては珍しく、小熊邸は地元の草の根運動により保存され、1998年にオリジナルのデザインに復元された。現在は、人気コーヒーショップ「ろいず珈琲館」として営業している。
写真:角幸博
佐田邸
設計・田上義也
北海道の南部、函館湾の近くに、海産物商であるオーナーのために1928年に建てられた佐田邸。コンクリートと木造の2階建てである。入口は2つあり、1つは道路に面した正面玄関で、もう1つの入口からは階段を通って2階のゲストルームに出られる。L字型の構造で、北側から函館湾を一望できるレイアウトになっている。また、珍しい八角形の応接室が庭に面しており、3面にある装飾入りの窓を通して太陽の光が射し込む。1階には、巨大な暖炉のついた洋風リビングルームがある一方で、畳と障子で伝統的なたたずまいの和室も3つ設けられている。
佐田邸
設計・田上義也
北海道の南部、函館湾の近くに、海産物商であるオーナーのために1928年に建てられた佐田邸。コンクリートと木造の2階建てである。入口は2つあり、1つは道路に面した正面玄関で、もう1つの入口からは階段を通って2階のゲストルームに出られる。L字型の構造で、北側から函館湾を一望できるレイアウトになっている。また、珍しい八角形の応接室が庭に面しており、3面にある装飾入りの窓を通して太陽の光が射し込む。1階には、巨大な暖炉のついた洋風リビングルームがある一方で、畳と障子で伝統的なたたずまいの和室も3つ設けられている。
写真:角幸博
重要文化財に指定されており、住宅としては使われていないが、春から秋にかけてカフェ「日和茶房 (ひわさぼう)」として営業している。
続きは「日本の住宅建築に今も息づくフランク・ロイド・ライトの影響とは? 【Part 2】」をお読みください。
教えてHouzz
ご感想をコメント欄でおきかせください。
重要文化財に指定されており、住宅としては使われていないが、春から秋にかけてカフェ「日和茶房 (ひわさぼう)」として営業している。
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