日本の住宅建築に今も息づくフランク・ロイド・ライトの影響とは? 【Part 2】
日本に一時滞在し、日本の若き建築家たちにライトが与えた影響は、彼が日本を去ったあとも、「アプレンティス」と呼ばれた弟子たちから、その弟子、そのまた弟子たちへと、脈々と受け継がれ、今も日本の住宅建築のなかに息づいています。
フランク・ロイド・ライトが日本の住宅建築に与えた影響を考察するシリーズ。パート 1「フランク・ロイド・ライトが日本の住宅建築に与えた大きな影響とは?」では、遠藤新、アントニン・レーモンド、土浦亀城、田上義也という、ライトの直接的な影響を受けてキャリアを築いていった、ライトの弟子たち (アプレンティス) の第1世代を取り上げた。彼らはのちに、それぞれが名作建築を作り出し、日本の街並みを変えていっただけでなく、次の世代の建築家たちの師として活躍することになる。そして、そこから次の世代、また次の世代へと、影響は連鎖していったのだ。
本パート2では、ライトにインスピレーションを受けた「第2世代」以降の日本人建築家たちと、その現在に至るまでの作品を見ていきたい。
本パート2では、ライトにインスピレーションを受けた「第2世代」以降の日本人建築家たちと、その現在に至るまでの作品を見ていきたい。
写真: 八尾和美
八尾邸
設計・遠藤楽
フランク・ロイド・ライトの作品を雑誌で目にしたことがきっかけで、家族4人で暮らす家をプレーリースタイルで建てることに決めた八尾夫妻。地元の大阪で建築家を探し始めると、まもなく遠藤楽のもとにたどり着いた。それから緊密に設計の相談をしながら作業は進んだが、1995年に阪神淡路大震災が起こって建設は一時中断、労働力や物資不足に陥った。しかし1996年初頭には竣工し、延床面積215平方メートルの家が完成した。
2階建て木造住宅(上の写真2点)で、2階にはリビング、ダイニング、キッチン、ピアノ室、そして和室のゲストルームがある。寝室は1階だ。これは景色も採光も上の階のほうが良いことから、楽が好んで用いたレイアウトである。下の階のベッドルームは裏庭に面しており、主寝室のすぐ外には池がある。
床から天井まで完全に仕切る壁はあまり使わず、まぐさの上の空間を開いたままにして、家じゅうをつなぐ空間として残すことが多かった。天井を走る梁は、構造上のものというより装飾を考えたものであり、ここでは天井の角度の面白みを強調している。
八尾邸
設計・遠藤楽
フランク・ロイド・ライトの作品を雑誌で目にしたことがきっかけで、家族4人で暮らす家をプレーリースタイルで建てることに決めた八尾夫妻。地元の大阪で建築家を探し始めると、まもなく遠藤楽のもとにたどり着いた。それから緊密に設計の相談をしながら作業は進んだが、1995年に阪神淡路大震災が起こって建設は一時中断、労働力や物資不足に陥った。しかし1996年初頭には竣工し、延床面積215平方メートルの家が完成した。
2階建て木造住宅(上の写真2点)で、2階にはリビング、ダイニング、キッチン、ピアノ室、そして和室のゲストルームがある。寝室は1階だ。これは景色も採光も上の階のほうが良いことから、楽が好んで用いたレイアウトである。下の階のベッドルームは裏庭に面しており、主寝室のすぐ外には池がある。
床から天井まで完全に仕切る壁はあまり使わず、まぐさの上の空間を開いたままにして、家じゅうをつなぐ空間として残すことが多かった。天井を走る梁は、構造上のものというより装飾を考えたものであり、ここでは天井の角度の面白みを強調している。
写真:秋山実
中田邸
設計・遠藤楽
医師の一家のために1996年に建てた家。傾斜地に建っているので、同じ階でも片側は地下だが、もう片側では地上のサンルームになっている。3階建ての木造・タイル張りで、大谷石がアクセントに使われている。屋内の壁や床は磨き上げたマツ材で、正方形の埋め込み照明が、高い天井と、まぐさの位置にも配されている。
中田邸
設計・遠藤楽
医師の一家のために1996年に建てた家。傾斜地に建っているので、同じ階でも片側は地下だが、もう片側では地上のサンルームになっている。3階建ての木造・タイル張りで、大谷石がアクセントに使われている。屋内の壁や床は磨き上げたマツ材で、正方形の埋め込み照明が、高い天井と、まぐさの位置にも配されている。
写真:秋山実
リビング・ダイニングは仕切りのないひとつながりの空間で、外はカンチレバー (片持ち梁) で突き出したバルコニーになっている。ほかにも、屋外だけでなく屋内にもバルコニーがある。主寝室の室内窓からは、階下の広いリビングスペースが見える。ふんだんに作られた窓からは、山の木々の緑が楽しめる。
リビング・ダイニングは仕切りのないひとつながりの空間で、外はカンチレバー (片持ち梁) で突き出したバルコニーになっている。ほかにも、屋外だけでなく屋内にもバルコニーがある。主寝室の室内窓からは、階下の広いリビングスペースが見える。ふんだんに作られた窓からは、山の木々の緑が楽しめる。
写真:久野和作
松平邸
設計・遠藤楽
ある家族のために2003年に設計された作品。松と杉をつかったアシメトリーな切妻屋根のこじんまりと心地よい別荘だ。軽井沢の森の中にあり、美しい緑の眺めが広がる家である。
松平邸
設計・遠藤楽
ある家族のために2003年に設計された作品。松と杉をつかったアシメトリーな切妻屋根のこじんまりと心地よい別荘だ。軽井沢の森の中にあり、美しい緑の眺めが広がる家である。
写真:久野和作
階段を降りたところにダイニングルームに面して大谷石とレンガでできた暖炉があり、さらに1段下がったエリアがリビングとなっている。2階の主寝室には折戸があり、開けば下のリビングルームを見下ろすことができるので、お互いの会話が聞こえて、文字通り、また象徴的な意味でも、家族が1つになれる空間構成となっている。
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階段を降りたところにダイニングルームに面して大谷石とレンガでできた暖炉があり、さらに1段下がったエリアがリビングとなっている。2階の主寝室には折戸があり、開けば下のリビングルームを見下ろすことができるので、お互いの会話が聞こえて、文字通り、また象徴的な意味でも、家族が1つになれる空間構成となっている。
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2. 第2世代:アントニン・レーモンドとヨーロッパの橋渡しをした前川國男
ライトの弟子であったアントニン・レーモンドが前川國男を雇い入れたのは、前川がパリのル・コルビュジェのもとから戻った直後の1930年だった。それから2人は1935年に前川が独立するまで一緒に仕事をしている。建築史学者のデヴィッド・スチュワート氏はこう語る。「レーモンドが前川を通じて後世に残した影響は非常に大きかったのではないでしょうか。若い世代の日本人建築家たちが考えてもみなかったような可能性をもたらしたと思います。」
コルビュジェ的モダニズムでは、確立されたデザインルールを守るよりも常に革新し続けることが求められる――前川は、おそらくレーモンドよりも早く、そのことを理解していたのだろう。モダニズムを日本の文化的・風土的背景に応用していくことで、前川は、のちに彼のもとで働くことになる丹下健三とともに、20世紀でもっとも精力的に活動した建築家となったのだ。
前川國男邸
設計・前川國男
若い建築家の自邸には、その人の核となる建築思想があらわれるものだ。前川國男が1942年に手がけた自邸も例外ではない。前川の建築について、コルビュジエの影響を重視し、この家が小ぶりで質素な素材を使っているのは戦時中の物資不足のためであるとし、さらに「この家の1階は、コルビュジエのピロティの概念を室内にもちこんだものである」とさえする建築史家もいる。だが、ネオ・ジャパネスクな屋根のラインや玄関の大谷石、大胆に2層分を覆う窓――北向きで、光をやわらかくとりいれる明かり障子となっている――を見れば、ライトとのつながりを見ることができる。
ライトの弟子であったアントニン・レーモンドが前川國男を雇い入れたのは、前川がパリのル・コルビュジェのもとから戻った直後の1930年だった。それから2人は1935年に前川が独立するまで一緒に仕事をしている。建築史学者のデヴィッド・スチュワート氏はこう語る。「レーモンドが前川を通じて後世に残した影響は非常に大きかったのではないでしょうか。若い世代の日本人建築家たちが考えてもみなかったような可能性をもたらしたと思います。」
コルビュジェ的モダニズムでは、確立されたデザインルールを守るよりも常に革新し続けることが求められる――前川は、おそらくレーモンドよりも早く、そのことを理解していたのだろう。モダニズムを日本の文化的・風土的背景に応用していくことで、前川は、のちに彼のもとで働くことになる丹下健三とともに、20世紀でもっとも精力的に活動した建築家となったのだ。
前川國男邸
設計・前川國男
若い建築家の自邸には、その人の核となる建築思想があらわれるものだ。前川國男が1942年に手がけた自邸も例外ではない。前川の建築について、コルビュジエの影響を重視し、この家が小ぶりで質素な素材を使っているのは戦時中の物資不足のためであるとし、さらに「この家の1階は、コルビュジエのピロティの概念を室内にもちこんだものである」とさえする建築史家もいる。だが、ネオ・ジャパネスクな屋根のラインや玄関の大谷石、大胆に2層分を覆う窓――北向きで、光をやわらかくとりいれる明かり障子となっている――を見れば、ライトとのつながりを見ることができる。
飾り棚のある小さなロフトが、1階部分とつながっており、1階はキッチン、ベッドルーム、書斎のほか、中央にリビングダイニングにとどまらない多機能空間がある。この空間はゆったりと、何ものにも遮られない空間となっており、前庭と裏庭をつないでいる。家具調度や照明も前川がデザインした。戦時中、米軍の空襲により事務所を焼失したため、前川は自宅に仕事場を移していたが、創作に適した刺激的な空間であったことが想像できる。現在は江戸東京たてもの園にて一般公開されている。
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写真:久野和作
3.第2世代:東西融合の錬金術師、吉村順三
第2世代の建築家のひとり、吉村順三がアントニン・レーモンドのもとで建築家として初めて世に出たのは1931年、わずか21歳のときであった。2人が日光に建てた小さな別荘は、ライトからのインスピレーションと、伝統的な農家風建築とがひとつになったデザインだ。
吉村は、日本と米国ペンシルパニア州ニューホープで引き続きレーモンドとともに仕事をし、1941年に独立事務所を構えた。 のちに吉村は、アメリカで初の現代日本建築となったニューヨーク市の〈ジャパン・ソサエティー本部〉をはじめ、多くのモダニズム建築を手掛けた建築家として知られることになる。
森の中の家
設計・吉村順三
しかし、吉村が本当に好んだのは住宅建築だった。1962年に軽井沢に建てた吉村自身の別荘、森の中の家もその1つ。木立の間にある小ぶりな建物で、玄関につながる階段とユーティリティ室がコンクリートの台座に収められており、その上にカンチレバーで突き出た居住空間がある。この家には、自然と一体化したような、快適で穏やかな雰囲気があふれており、それが森を通って外の世界へ、そして次の世代へと反響しているように思える。
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3.第2世代:東西融合の錬金術師、吉村順三
第2世代の建築家のひとり、吉村順三がアントニン・レーモンドのもとで建築家として初めて世に出たのは1931年、わずか21歳のときであった。2人が日光に建てた小さな別荘は、ライトからのインスピレーションと、伝統的な農家風建築とがひとつになったデザインだ。
吉村は、日本と米国ペンシルパニア州ニューホープで引き続きレーモンドとともに仕事をし、1941年に独立事務所を構えた。 のちに吉村は、アメリカで初の現代日本建築となったニューヨーク市の〈ジャパン・ソサエティー本部〉をはじめ、多くのモダニズム建築を手掛けた建築家として知られることになる。
森の中の家
設計・吉村順三
しかし、吉村が本当に好んだのは住宅建築だった。1962年に軽井沢に建てた吉村自身の別荘、森の中の家もその1つ。木立の間にある小ぶりな建物で、玄関につながる階段とユーティリティ室がコンクリートの台座に収められており、その上にカンチレバーで突き出た居住空間がある。この家には、自然と一体化したような、快適で穏やかな雰囲気があふれており、それが森を通って外の世界へ、そして次の世代へと反響しているように思える。
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吉村から独立した奥村が1973年に手掛けた星野山荘は、コンクリートの台座、コルビュジエ風のピロティ、リビングルームに設えた大きな暖炉など、吉村が手がけた森の中の家を思わせる。写真提供:丸谷博男
3.第3世代:エコ建築という革新を実践した奥村昭雄と丸谷博男
吉村は、1970年代の初め、東京芸術大学で教え子でもあった奥村昭雄の影響もあったのか、設計のなかに床暖房を取り入れる試みを始めた。吉村が初めて床暖房に取り組んだのは、ペンシルヴァニアのレーモンド事務所時代であった。 エネルギー効率の良い冷暖房空調設備を追及したライトのユーソニアン住宅では、床暖房は一般的な機能となっていた。
帰国後、吉村は灯油を熱源とした強制空気加熱式ストーブ(オイルファーネス)を利用した床暖房システムを作り、奧村は独立後、1973年に星野山荘でさらに進化させている。
3.第3世代:エコ建築という革新を実践した奥村昭雄と丸谷博男
吉村は、1970年代の初め、東京芸術大学で教え子でもあった奥村昭雄の影響もあったのか、設計のなかに床暖房を取り入れる試みを始めた。吉村が初めて床暖房に取り組んだのは、ペンシルヴァニアのレーモンド事務所時代であった。 エネルギー効率の良い冷暖房空調設備を追及したライトのユーソニアン住宅では、床暖房は一般的な機能となっていた。
帰国後、吉村は灯油を熱源とした強制空気加熱式ストーブ(オイルファーネス)を利用した床暖房システムを作り、奧村は独立後、1973年に星野山荘でさらに進化させている。
星野山荘のリビングルームと暖炉。写真提供:丸谷博男
丸谷博男が設計した宮城野山荘
奥村と丸谷博男らが開発したソーラーシステムデザインはOMソーラー協会によって1987年に起業された。現在では全国25,000戸以上で、同協会(現在は〈OMソーラー株式会社〉と改称)のシステムが使われている。テクノロジー・設計・建材を革新することで資源消費を最低限に抑え、二酸化炭素排出量の少ない、より健康な住宅を推進している企業である。
丸谷は現在、木・土・草の自然素材を建材とし、自然通気、化石燃料でない自然エネルギー、断熱+遮熱+気化熱作用とを組み合わせたサステナブルな家づくりを推進する一般社団法人〈エコハウス研究会〉の代表も務めている。ここでは、建設方法や室温調節方法について1つのメソッドにこだわるのではなく、環境にやさしいライフスタイルを広めることを目指す「開かれたシステム」をとっている。
2011年の東日本大震災による福島原発の事故と続く日本各地の原発の稼働停止をきっかけとして、新たに自然エネルギーを利用した〈エコハウス研究会〉および〈OMソーラー〉の家づくりを求める人は増え続けている。
奥村と丸谷博男らが開発したソーラーシステムデザインはOMソーラー協会によって1987年に起業された。現在では全国25,000戸以上で、同協会(現在は〈OMソーラー株式会社〉と改称)のシステムが使われている。テクノロジー・設計・建材を革新することで資源消費を最低限に抑え、二酸化炭素排出量の少ない、より健康な住宅を推進している企業である。
丸谷は現在、木・土・草の自然素材を建材とし、自然通気、化石燃料でない自然エネルギー、断熱+遮熱+気化熱作用とを組み合わせたサステナブルな家づくりを推進する一般社団法人〈エコハウス研究会〉の代表も務めている。ここでは、建設方法や室温調節方法について1つのメソッドにこだわるのではなく、環境にやさしいライフスタイルを広めることを目指す「開かれたシステム」をとっている。
2011年の東日本大震災による福島原発の事故と続く日本各地の原発の稼働停止をきっかけとして、新たに自然エネルギーを利用した〈エコハウス研究会〉および〈OMソーラー〉の家づくりを求める人は増え続けている。
5.第4世代:ユーソニアン住宅の匠、磯矢亮介
ライトの影響を現代に息づかせている「第4世代」の中心人物は、タリアセンでも学んだ磯矢亮介だろう。磯矢はもともと船舶の設計をしていたが、1990年代に『ナチュラルハウスブック』を読んで、ユーソニアン住宅を建てたいと転向を決意した。ライトは1930年代アメリカで中間所得層向けに小型の平屋ユーソニアン住宅を考案しており、パッシブソーラーで温めて自然冷却する大きなカンチレバー構造(カーポートの発明にもつながった)、自然光を取り入れるクリアストーリー窓、輻射熱であたためる床暖房などをいち早く取り入れていた。
磯矢は、日本からフランク・ロイド・ライト建築学校へ行く留学生を選抜していた遠藤楽に会い、アリゾナ州スコッツデールのタリアセンに向かった。タリアセンで数年間を過ごして帰国したのち、1995年に妻・雪映とともに〈磯矢建築事務所〉を開いて、夢の実現に取り掛かった。
「ユーソニアン住宅は、見た目よりも広く感じられ、昔の伝統的な日本建築のように、庭とつながっている感覚があります」と磯矢は語る。「特に狭い敷地には理想的な住宅です。」
ライトの影響を現代に息づかせている「第4世代」の中心人物は、タリアセンでも学んだ磯矢亮介だろう。磯矢はもともと船舶の設計をしていたが、1990年代に『ナチュラルハウスブック』を読んで、ユーソニアン住宅を建てたいと転向を決意した。ライトは1930年代アメリカで中間所得層向けに小型の平屋ユーソニアン住宅を考案しており、パッシブソーラーで温めて自然冷却する大きなカンチレバー構造(カーポートの発明にもつながった)、自然光を取り入れるクリアストーリー窓、輻射熱であたためる床暖房などをいち早く取り入れていた。
磯矢は、日本からフランク・ロイド・ライト建築学校へ行く留学生を選抜していた遠藤楽に会い、アリゾナ州スコッツデールのタリアセンに向かった。タリアセンで数年間を過ごして帰国したのち、1995年に妻・雪映とともに〈磯矢建築事務所〉を開いて、夢の実現に取り掛かった。
「ユーソニアン住宅は、見た目よりも広く感じられ、昔の伝統的な日本建築のように、庭とつながっている感覚があります」と磯矢は語る。「特に狭い敷地には理想的な住宅です。」
葛飾の家
設計・磯矢亮介
上の写真は、2007年、東京に完成したコンクリートとスタッコのユーソニアン住宅。家族が今後も増える予定なので、フレキシブルで拡張も可能なデザインにしている。
V字型をした3階建ての家で、道路に面した内角120度の狭い角地に立っている。階段を上がって2階が入口になっており、この階に家族で過ごすリビング空間がある。ベッドルームは1階と3階で、屋内の階段はダブルハイトの窓に囲まれている。2階のL字型窓の外には、美しい木のバルコニーが見える。
この写真で、磯矢が立っている隣に、中央部分がくり抜かれたパネルが見えている。これはライトのユーソニアンデザインのトレードマークの1つで、日本の欄間からヒントを得たディテールだ。ユーソニアン住宅では装飾的な横長の明り取り窓として使われ、昼間はここから射しこむ光が室内に模様を描き出し、外の景色を中に引き込む役割もあった。夜は、柔らかく漏れる明かりが、外から見ると灯籠のような印象を作り出す。
設計・磯矢亮介
上の写真は、2007年、東京に完成したコンクリートとスタッコのユーソニアン住宅。家族が今後も増える予定なので、フレキシブルで拡張も可能なデザインにしている。
V字型をした3階建ての家で、道路に面した内角120度の狭い角地に立っている。階段を上がって2階が入口になっており、この階に家族で過ごすリビング空間がある。ベッドルームは1階と3階で、屋内の階段はダブルハイトの窓に囲まれている。2階のL字型窓の外には、美しい木のバルコニーが見える。
この写真で、磯矢が立っている隣に、中央部分がくり抜かれたパネルが見えている。これはライトのユーソニアンデザインのトレードマークの1つで、日本の欄間からヒントを得たディテールだ。ユーソニアン住宅では装飾的な横長の明り取り窓として使われ、昼間はここから射しこむ光が室内に模様を描き出し、外の景色を中に引き込む役割もあった。夜は、柔らかく漏れる明かりが、外から見ると灯籠のような印象を作り出す。
函南の家
設計・磯矢亮介
家のどこからでも富士山の素晴らしい景色が見える、丘に建つ家。2階建てのユーソニアン住宅で、ブリックタイルとレッドシダー材の構造が曲線を描きながら丘をのぼって屋上デッキへと向かう。退職したエンジニアとその奥様の住まいとして建てた家だ。柔らかい地盤でも安定するよう地中梁を使用している。
設計・磯矢亮介
家のどこからでも富士山の素晴らしい景色が見える、丘に建つ家。2階建てのユーソニアン住宅で、ブリックタイルとレッドシダー材の構造が曲線を描きながら丘をのぼって屋上デッキへと向かう。退職したエンジニアとその奥様の住まいとして建てた家だ。柔らかい地盤でも安定するよう地中梁を使用している。
写真:磯矢亮介
家の屋上にあるカンチレバーのカーポートから出入りする。円形のベランダの水平ルーバー式の庇が広い部屋の中にドラマチックな影を作り出す。1階はベッドルームと作業場になっている。より効果的な断熱法や、雨に強い屋根のシーリング材など、最新の技術を取り入れている。
家の屋上にあるカンチレバーのカーポートから出入りする。円形のベランダの水平ルーバー式の庇が広い部屋の中にドラマチックな影を作り出す。1階はベッドルームと作業場になっている。より効果的な断熱法や、雨に強い屋根のシーリング材など、最新の技術を取り入れている。
今も生き続けるライトの影響
2003年以降、日本では、〈オーガニックハウス〉がフランク・ロイド・ライト財団から正規ライセンスを得ており、プレイリー住宅やユーソニアン住宅を建てることが可能になっている。
〈オーガニックハウス〉は、ライトまたはライトの事務所である〈タリアセン・アーキテクツ〉でプリンシパル建築家・計画家をつとめたジョン・ラッタンバリーが設計したコンセプトデザインをはじめ12のベースデザインと2シリーズコレクションをもとに住宅を提供している。間取りやサイズは異なるが、コンパクトなモジュール式による建築により、施主の多くはで将来は子どもたちにこの家を住み継いでほしいと考える人びとだ。スマートな建築技術と世界的にも高い技術をもつ日本の施工会社のネットワークを活用した〈オーガニックハウス〉の住宅は、人気を集めている。
2003年以降、日本では、〈オーガニックハウス〉がフランク・ロイド・ライト財団から正規ライセンスを得ており、プレイリー住宅やユーソニアン住宅を建てることが可能になっている。
〈オーガニックハウス〉は、ライトまたはライトの事務所である〈タリアセン・アーキテクツ〉でプリンシパル建築家・計画家をつとめたジョン・ラッタンバリーが設計したコンセプトデザインをはじめ12のベースデザインと2シリーズコレクションをもとに住宅を提供している。間取りやサイズは異なるが、コンパクトなモジュール式による建築により、施主の多くはで将来は子どもたちにこの家を住み継いでほしいと考える人びとだ。スマートな建築技術と世界的にも高い技術をもつ日本の施工会社のネットワークを活用した〈オーガニックハウス〉の住宅は、人気を集めている。
死後60年近く経ち、日本で初めて設計を手掛けたときから100年以上になる今も、フランク・ロイド・ライトの息の長い影響力は、このようなカスタマイズされたオリジナルデザインのなかに、そして弟子たちやその後に続く建築家の進化し続ける建築作品のなかに、生き続けている。ライトは、伝統的な日本建築、モダニズム建築、オーガニックな建築という三者の対話を促す存在であり続けているのだ。
日本の都市がコンクリートジャングルと化している今も、とくに住宅建築家にとっては、建築から豊かな生活を目指したライトの試みは、人間を抑えつけるのではなく育んでくれる建物の力を証明してくれる存在である。
「フランク・ロイド・ライトの作品を目にすると元気になります。それはとても重要なことだと思います。フランク・ロイド・ライトのヨドコウ迎賓館や、遠藤新さんの甲子園ホテルなどは、とても複雑な形をしていて、建築写生の訓練にもとてもよい建物です」と、建築家の乾久美子は言う。
日本の都市がコンクリートジャングルと化している今も、とくに住宅建築家にとっては、建築から豊かな生活を目指したライトの試みは、人間を抑えつけるのではなく育んでくれる建物の力を証明してくれる存在である。
「フランク・ロイド・ライトの作品を目にすると元気になります。それはとても重要なことだと思います。フランク・ロイド・ライトのヨドコウ迎賓館や、遠藤新さんの甲子園ホテルなどは、とても複雑な形をしていて、建築写生の訓練にもとてもよい建物です」と、建築家の乾久美子は言う。
ユーソニアン住宅の匠、磯矢亮介はこう語る。「ライトの作品は古いもの、と思われがちですが、世の中からかけ離れたものをつくったのであり、それは未だに新しいもの、まだ実現されていない種類の建物です。ライトの作品は未来に属しているのだと僕は思います 。」
建築家・遠藤新の息子である遠藤楽は、自由学園を創立した教育者、羽仁もと子・吉一夫妻のもと学園で学び(自由学園はフランク・ロイド・ライトと新による設計)、その後は父親と、最終的にはライト自身からも教育を受けている。楽は、こうした影響に加え、それ以外の要素も取り入れて、自分の建築哲学を築き上げていった。
1945年に高校を卒業し、ある建築事務所で働いたのち、遠藤楽は父である新の事務所に移り、1951年に新が亡くなるまでともに仕事をした。1957年、ようやく資金を蓄えて、念願のタリアセン留学が実現する。当時のライトは晩年に達しており、 楽は、ライトと製図室をともにした最後の日本人アプレンティス(弟子)となった。
帰国後まもなく、ライト的な住宅設計を求めるクライアントが集まるようになり、最終的に楽が完成させた住宅作品は250を超えた。ライトについて、楽は次のように振り返っている。「まねをしようとしちゃダメだよって言われましたね、ライトさんに。私のまねをしちゃダメなんだよって。私のまねをしたら、あなたが、あなた自身がなくなっちゃうよ。あなた自身で考えなきゃいけないんだよと、さんざん言われました。」
楽の「手法」はというと、ライトに劣らないほど素材の性質を深く理解し、日本の住宅の大半がコンクリートを使い始めた時代にも、あえて木を使い続けた。暖炉には凝灰岩の大谷石を部分的に使うことが多かったが、これはライトや帝国ホテルへのオマージュという意味だけではなく、空間をやわらげる効果のためでもあった。楽の住宅デザインのなかで、暖炉は、家の中心に配置される重要な存在になっている。楽は、暖炉に関しては自分の師匠たちの設計よりも優れており、いい燃え方をする暖炉を作ることができる、と自負していた。