コメント
漱石と建築:文豪が見た明治・大正の日本の街並みと住まい
夏目漱石が、学生時代に建築家をめざしたことがあったのをご存知だろうか。近代日本人の葛藤を描いた文豪は、実は住まいと暮らしの優れた観察者でもあったのだ。
Miki Anzai
2017年2月9日
2017年2月9日は夏目漱石の生誕150周年にあたる。文豪・漱石は、学生時代に建築家をめざしたことがあった。その理由について、「美術的なことが好(すき)であるから、実用と共に建築を美術的にして見ようと思った」と談話筆記『落第』に記している。しかし、建築よりも文学のほうが「幾百年幾千年の後に伝へる大作」を作れる、という友人の助言を受け入れ、英文学を専攻し、英語教師を経て、小説家となった。
さすがに、一時建築を志しただけあって、漱石の作品には都市や住まいへの鋭い観察が随所に登場する。また、物語の舞台となる建物や街並みの描写を通じて、文明開化を目指す明治の日本が急速に西洋化していくことへの反発、日本的文化や精神、慣習への愛着も垣間見えてくる。
漱石は明治維新の前年(1867年)に東京に生を受け、江戸情緒の残る神田で少年期を過ごし、1900年から2年間、国費で留学した英国で、重厚な石造建築に圧倒された。そして、英国生活に加え、洋風建築が続々と建ち始めた本郷近辺で学び暮らした体験などをもとに小説を書き続けた。急速に変わりゆく日本の都市風景の中で、和洋折衷的建築が増えていくようすや、日本の伝統建築の佇まいやディテール部分も、漱石は細かく描写している。建築やデザインへの視点に注目しながら、漱石文学を読み直すと、日本における住空間の変化を読みとることができる。
さすがに、一時建築を志しただけあって、漱石の作品には都市や住まいへの鋭い観察が随所に登場する。また、物語の舞台となる建物や街並みの描写を通じて、文明開化を目指す明治の日本が急速に西洋化していくことへの反発、日本的文化や精神、慣習への愛着も垣間見えてくる。
漱石は明治維新の前年(1867年)に東京に生を受け、江戸情緒の残る神田で少年期を過ごし、1900年から2年間、国費で留学した英国で、重厚な石造建築に圧倒された。そして、英国生活に加え、洋風建築が続々と建ち始めた本郷近辺で学び暮らした体験などをもとに小説を書き続けた。急速に変わりゆく日本の都市風景の中で、和洋折衷的建築が増えていくようすや、日本の伝統建築の佇まいやディテール部分も、漱石は細かく描写している。建築やデザインへの視点に注目しながら、漱石文学を読み直すと、日本における住空間の変化を読みとることができる。
洋館の「傲慢さ」
『吾輩は猫である』は、文明開化の時代と人間社会を猫の視点で風刺した、漱石初の長編小説である。猫の飼い主で、漱石自身がモデルとされる珍野苦沙弥先生の狭くて古い日本家屋と、実業家の金田氏の広くて新しい洋館との落差を、猫がつぶやくシーンを見てみよう。
“向う横町へ来て見ると、聞いた通りの西洋館が角地面を吾物顔に占領している。この主人もこの西洋館のごとく傲慢に構えているんだろうと、門を這入ってその建築を眺めて見たがただ人を威圧しようと、二階作りが無意味に突っ立っているほかに何等の能もない構造であった。迷亭のいわゆる月並とはこれであろうか。玄関を右に見て、植込の中を通り抜けて、勝手口へ廻る。さすがに勝手は広い、苦沙弥先生の台所の十倍はたしかにある。”
漱石は、明治期に建てられた西洋館を「傲慢」、「能も無い構造」と形容し、当時、世間がありがたがっていた「近代化」や「西洋」を、猫の目を借りて批判している。確かに、この時代に建った洋風建築は、英国人建築家ジョサイア・コンドル設計の三菱財閥の岩崎邸をはじめとして、権力の象徴といえる邸宅が多い。典型的な平屋で、猫の主人が住む日本家屋との、明確な対比がなされている。
『吾輩は猫である』は、文明開化の時代と人間社会を猫の視点で風刺した、漱石初の長編小説である。猫の飼い主で、漱石自身がモデルとされる珍野苦沙弥先生の狭くて古い日本家屋と、実業家の金田氏の広くて新しい洋館との落差を、猫がつぶやくシーンを見てみよう。
“向う横町へ来て見ると、聞いた通りの西洋館が角地面を吾物顔に占領している。この主人もこの西洋館のごとく傲慢に構えているんだろうと、門を這入ってその建築を眺めて見たがただ人を威圧しようと、二階作りが無意味に突っ立っているほかに何等の能もない構造であった。迷亭のいわゆる月並とはこれであろうか。玄関を右に見て、植込の中を通り抜けて、勝手口へ廻る。さすがに勝手は広い、苦沙弥先生の台所の十倍はたしかにある。”
漱石は、明治期に建てられた西洋館を「傲慢」、「能も無い構造」と形容し、当時、世間がありがたがっていた「近代化」や「西洋」を、猫の目を借りて批判している。確かに、この時代に建った洋風建築は、英国人建築家ジョサイア・コンドル設計の三菱財閥の岩崎邸をはじめとして、権力の象徴といえる邸宅が多い。典型的な平屋で、猫の主人が住む日本家屋との、明確な対比がなされている。
煉瓦の塀
岩崎邸については、中編小説『野分』に、直接的な言及がある。
“石段を三十六おりる。電車がごうっごうっと通る。岩崎の塀が冷酷に聳えている。あの塀へ頭をぶつけて壊してやろうかと思う。”
1896年に台東区池之端に竣工した岩崎久彌(彌太郎の長男)邸の洋館は、現在「旧岩崎庭園」として一般公開されており、「冷酷に聳えている」石垣の上のレンガ塀とともに、重要文化財に指定されている。明治維新以降、建築・土木分野でも西洋の技術を貪欲に吸収した日本の都市では、煉瓦の塀が急速に増えていく。長い間、住居といえば木造建築だった国にとって、石や煉瓦の建築利用は、技術面においても革命的なことで、1923年の関東大震災で、その耐久性に疑問が持たれるまで、約60年にわたり煉瓦が近代建築の代表的素材として多用された。しかし、煉瓦は輸入するにせよ国内製造するにせよコストが高く、明治の末になっても住宅に使われるのは珍しかった。
ところで、岩崎邸の塀は、 前期三部作の中心をなす作品 『それから』にも「岩崎家の高い石垣が左右から細い坂を塞いでいた」という表現で登場している。優美な建物が建ち並び、本物の紳士が闊歩する大英帝国から帰国後、漱石が『吾輩は猫である』を執筆したのが、この威圧的な塀のある岩崎邸から徒歩圏にある本郷の借家だ。形だけ西洋を真似る日本の行く末を憂いていたことがうかがえる。
岩崎邸については、中編小説『野分』に、直接的な言及がある。
“石段を三十六おりる。電車がごうっごうっと通る。岩崎の塀が冷酷に聳えている。あの塀へ頭をぶつけて壊してやろうかと思う。”
1896年に台東区池之端に竣工した岩崎久彌(彌太郎の長男)邸の洋館は、現在「旧岩崎庭園」として一般公開されており、「冷酷に聳えている」石垣の上のレンガ塀とともに、重要文化財に指定されている。明治維新以降、建築・土木分野でも西洋の技術を貪欲に吸収した日本の都市では、煉瓦の塀が急速に増えていく。長い間、住居といえば木造建築だった国にとって、石や煉瓦の建築利用は、技術面においても革命的なことで、1923年の関東大震災で、その耐久性に疑問が持たれるまで、約60年にわたり煉瓦が近代建築の代表的素材として多用された。しかし、煉瓦は輸入するにせよ国内製造するにせよコストが高く、明治の末になっても住宅に使われるのは珍しかった。
ところで、岩崎邸の塀は、 前期三部作の中心をなす作品 『それから』にも「岩崎家の高い石垣が左右から細い坂を塞いでいた」という表現で登場している。優美な建物が建ち並び、本物の紳士が闊歩する大英帝国から帰国後、漱石が『吾輩は猫である』を執筆したのが、この威圧的な塀のある岩崎邸から徒歩圏にある本郷の借家だ。形だけ西洋を真似る日本の行く末を憂いていたことがうかがえる。
和洋折衷様式と和洋併置式住宅
『それから』には、高学歴ながら無職で親がかりの生活をしている主人公の代助が、実家の増築にあたり、内装設計を担当したことが書かれている。
“代助も玄関まで送って出たが、又引き返して客間の戸を開けて中へ這入った。これは近頃になって建て増した西洋作りで、内部の装飾その他の大部分は、代助の意匠に本づいて、専門家へ注文して出来上ったものである。”
明治期の西洋館の多くは、来客用の応接間である洋館と、日常生活の場である和風建築を並べて建設したり、代助の実家のように、同じ家屋の中に和と洋の様式を折衷させた建築が増えていた。
加えて、前述の岩崎邸もそうだが、この時代の実業家らの自宅の多くが、伝統家屋の脇に異国風の館を併置する「和洋併置式住宅」だったことは、注目に値する。なぜならこれは、明治から昭和の戦前までの日本にだけ見られる現象だからだ。建築史家の藤森照信氏は、日本特有の和洋併置式住宅の誕生について、著書『建築史的モンダイ』(ちくま新書)の中で、次のように考察している。
“ヨーロッパの建築は、時代ごとに例えばゴシック様式、ロココ様式といった「スタイルの歩み」が読み取れるが、日本の建築は、用途に従って変遷した。つまり、20世紀初頭に建築された「和洋併置住宅」は、生活部分は昔ながらの和を踏襲し、西洋化している社会との接点である応接間だけを洋館にするという「スタイルの使い分け」がなされた結果と考えられる。”
『それから』には、高学歴ながら無職で親がかりの生活をしている主人公の代助が、実家の増築にあたり、内装設計を担当したことが書かれている。
“代助も玄関まで送って出たが、又引き返して客間の戸を開けて中へ這入った。これは近頃になって建て増した西洋作りで、内部の装飾その他の大部分は、代助の意匠に本づいて、専門家へ注文して出来上ったものである。”
明治期の西洋館の多くは、来客用の応接間である洋館と、日常生活の場である和風建築を並べて建設したり、代助の実家のように、同じ家屋の中に和と洋の様式を折衷させた建築が増えていた。
加えて、前述の岩崎邸もそうだが、この時代の実業家らの自宅の多くが、伝統家屋の脇に異国風の館を併置する「和洋併置式住宅」だったことは、注目に値する。なぜならこれは、明治から昭和の戦前までの日本にだけ見られる現象だからだ。建築史家の藤森照信氏は、日本特有の和洋併置式住宅の誕生について、著書『建築史的モンダイ』(ちくま新書)の中で、次のように考察している。
“ヨーロッパの建築は、時代ごとに例えばゴシック様式、ロココ様式といった「スタイルの歩み」が読み取れるが、日本の建築は、用途に従って変遷した。つまり、20世紀初頭に建築された「和洋併置住宅」は、生活部分は昔ながらの和を踏襲し、西洋化している社会との接点である応接間だけを洋館にするという「スタイルの使い分け」がなされた結果と考えられる。”
欄間
『それから 』には、続いて代助が、実家の欄間の周辺の模様画を眺めるシーンがある。最近、見かけることが少なくなった欄間は 天井と鴨居の間に設置されるもので、障子や襖(ふすま)などとともに、日本の木造住宅における代表的な建具装飾の1つだ。和室と縁側の間にある欄間は、主に室内に明かりを採りこむためのもので、室内間の境目にある欄間は、風通しを良くするだけでなく、装飾として楽しむ目的として作られている。
“ことに欄間の周囲に張った模様画は、自分の知り合いのさる画家に頼んで、色々相談の揚句に成ったものだから、特更(ことさら)興味が深い。代助は立ちながら、画巻物を展開した様な、横長の色彩を眺めていた。”
代助の実家では、日本家屋に洋間を建て増し、そこに欄間を設けている。漱石の細かい室内描写から、当時の日本人が、西洋風の建築に憧れを抱きながらも、平安時代(寝殿造の貴族の住宅)にさかのぼる欄間を取り付けていたことがわかるが、まさに和洋折衷であり、興味深い。
欄間のある空間をもっと見る
『それから 』には、続いて代助が、実家の欄間の周辺の模様画を眺めるシーンがある。最近、見かけることが少なくなった欄間は 天井と鴨居の間に設置されるもので、障子や襖(ふすま)などとともに、日本の木造住宅における代表的な建具装飾の1つだ。和室と縁側の間にある欄間は、主に室内に明かりを採りこむためのもので、室内間の境目にある欄間は、風通しを良くするだけでなく、装飾として楽しむ目的として作られている。
“ことに欄間の周囲に張った模様画は、自分の知り合いのさる画家に頼んで、色々相談の揚句に成ったものだから、特更(ことさら)興味が深い。代助は立ちながら、画巻物を展開した様な、横長の色彩を眺めていた。”
代助の実家では、日本家屋に洋間を建て増し、そこに欄間を設けている。漱石の細かい室内描写から、当時の日本人が、西洋風の建築に憧れを抱きながらも、平安時代(寝殿造の貴族の住宅)にさかのぼる欄間を取り付けていたことがわかるが、まさに和洋折衷であり、興味深い。
欄間のある空間をもっと見る
深い庇
『それから』の同じ章に、代助が父に説教される最中、彼の意識が、父の口元ではなく部屋の構造や庭の配置に向かうシーンがある。
“代助は今この親爺と対坐している。廂(ひさし)の長い小さな部屋なので、居ながら庭を見ると、廂の先で庭が仕切られた様な感がある。少なくとも空は広く見えない。その代り静かで、落ち付いて、尻の据り具合が好い。”
長い庇は、四季のある日本で生み出された知恵ともいえる。夏は高い位置にある太陽の陽射しを遮るし、冬は太陽が低い位置にあるので暖かな陽射しを室内に取り込める。また、庇が長ければ、台風の横なぐりの雨も屋内に入りにくい。こうした機能に加え、長く張り出す庇は影の差す外観の美も作り出す。
漱石は、深い庇によって「庭が仕切られた様な感がある」と表現している。この感覚は、漱石のことを「当代にズバ抜けたる頭脳と技倆(ぎりょう)とを持った作家」と絶賛した谷崎潤一郎が、随筆『陰影礼賛』に記した日本的建築美の考察に通じるものがある。
『それから』の同じ章に、代助が父に説教される最中、彼の意識が、父の口元ではなく部屋の構造や庭の配置に向かうシーンがある。
“代助は今この親爺と対坐している。廂(ひさし)の長い小さな部屋なので、居ながら庭を見ると、廂の先で庭が仕切られた様な感がある。少なくとも空は広く見えない。その代り静かで、落ち付いて、尻の据り具合が好い。”
長い庇は、四季のある日本で生み出された知恵ともいえる。夏は高い位置にある太陽の陽射しを遮るし、冬は太陽が低い位置にあるので暖かな陽射しを室内に取り込める。また、庇が長ければ、台風の横なぐりの雨も屋内に入りにくい。こうした機能に加え、長く張り出す庇は影の差す外観の美も作り出す。
漱石は、深い庇によって「庭が仕切られた様な感がある」と表現している。この感覚は、漱石のことを「当代にズバ抜けたる頭脳と技倆(ぎりょう)とを持った作家」と絶賛した谷崎潤一郎が、随筆『陰影礼賛』に記した日本的建築美の考察に通じるものがある。
実際、『陰影礼賛』には、漱石への言及が3ヵ所もある。例えば、漱石自身が「俳句的小説」と位置づけた『草枕』の中で、羊羹の色を賛美している点に着目した谷崎は、羊羹の深みのある色合いは、クリームなどの「浅はかさ」と対象的に、「瞑想的」で「異様な深み」を醸し出すとしている。約20歳年長の漱石が谷崎に与えた影響の大きさがうかがえる。
こちらの記事も合わせて
『陰影礼賛』を通して今日の建築を考える
こちらの記事も合わせて
『陰影礼賛』を通して今日の建築を考える
明治・大正の宅地開発
未完に終わった遺作『明暗』には、主人公の叔父の藤井という人物が、資金ができたら、家を建ててみたいと思いを巡らす場面がある。おそらく、生涯借家住まいだった漱石の心情が現れたものだろう。その描写を読み解けば、大正時代の住宅地開発の地域とその勢いを読み取ることができる。
“藤井は(…)市の西北にあたる(…)ついこの間まで郊外に等しかったその高台のここかしこに年々建て増される大小の家が、年々彼の眼から蒼い色を奪って行くように感ぜられる時、彼は洋筆(ペン)を走らす手を止めて、よく自分の兄の身の上を考えた。折々は兄から金でも借りて、自分も一つ住宅を拵えて見ようかしらという気を起した。”
「市」とは、1889年から1943年まで「市」と呼ばれていた東京のことで、高台のある「市の西北」地域とは、現在の大久保や高田馬場周辺だろう。この作品が書かれた1916年、新宿区北西部は、まだ東京のはずれだった。
東京初の路面電車が開通したのが、漱石が英国から帰国した1903年。急速な近代化が進む中、交通網の整備とともに、都市が広がっていく。その後、英国の「田園都市構想」を取り入れて、鉄道の敷設とともに東京の郊外住宅地は拡大し続けたのだった。
未完に終わった遺作『明暗』には、主人公の叔父の藤井という人物が、資金ができたら、家を建ててみたいと思いを巡らす場面がある。おそらく、生涯借家住まいだった漱石の心情が現れたものだろう。その描写を読み解けば、大正時代の住宅地開発の地域とその勢いを読み取ることができる。
“藤井は(…)市の西北にあたる(…)ついこの間まで郊外に等しかったその高台のここかしこに年々建て増される大小の家が、年々彼の眼から蒼い色を奪って行くように感ぜられる時、彼は洋筆(ペン)を走らす手を止めて、よく自分の兄の身の上を考えた。折々は兄から金でも借りて、自分も一つ住宅を拵えて見ようかしらという気を起した。”
「市」とは、1889年から1943年まで「市」と呼ばれていた東京のことで、高台のある「市の西北」地域とは、現在の大久保や高田馬場周辺だろう。この作品が書かれた1916年、新宿区北西部は、まだ東京のはずれだった。
東京初の路面電車が開通したのが、漱石が英国から帰国した1903年。急速な近代化が進む中、交通網の整備とともに、都市が広がっていく。その後、英国の「田園都市構想」を取り入れて、鉄道の敷設とともに東京の郊外住宅地は拡大し続けたのだった。
さらに具体的な郊外の地名として「大久保」が登場するのが『三四郎』だ。主人公の三四郎の同郷の先輩で物理学者の「野々宮の家はすこぶる遠い。四、五日前大久保へ越した。しかし電車を利用すれば、すぐに行かれる。(中略)大久保の停車場を下りて、仲百人の通りを戸山学校の方へ行かずに、踏切からすぐ横へ折れ」、(中略)爪先上がりにだらだらと」細い道をのぼったあたりに位置するとある。つまり、この野々宮邸も、『明暗』の藤井家と同様、高台にある。
甲武線(現在の中央線)に大久保駅が開業したのが1906年。藤井や野々宮の家がある「高台」という記載から、東京の「山の手」の変遷がわかる。もともと「山の手」は、文字通り「山の上」で武家地だった麹町、四谷、青山などをさしていたが、東京市西部の住宅地が開発されると、こちらも「山の手」と呼ばれるようになった。
甲武線(現在の中央線)に大久保駅が開業したのが1906年。藤井や野々宮の家がある「高台」という記載から、東京の「山の手」の変遷がわかる。もともと「山の手」は、文字通り「山の上」で武家地だった麹町、四谷、青山などをさしていたが、東京市西部の住宅地が開発されると、こちらも「山の手」と呼ばれるようになった。
チッペンデールとアール・ヌーヴォー
漱石が英語教師を辞め、朝日新聞社の専属作家としてデビューした第一作目の『虞美人草』には、主人公の甲野欽吾が使っている亡父の西洋風書斎の描写がある。
“部屋は南を向く。仏蘭西式の窓は床を去る事五寸にして、すぐ硝子となる。(中略)そのほかに洋卓がある。チッペンデールとヌーヴォーを取り合せたような組み方に、思い切った今様を華奢な昔に忍ばして、室の真中を占領している。(中略)洋風の二間は、父が手狭な住居を、二十世紀に取り拡げた便利の結果である。趣味に叶うと云わんよりは、むしろ実用に逼られて、時好の程度に己れを委却した建築である。”
作家が場面設定である建物やインテリアに言及することは多いが、舶来品をつぶさに描写しているのは、英国に留学し、本場の建築様式や家具を目にしていたからこそだろう。洋卓(デスク)のデザインの「チッペンデール」とは、18世紀に英国の上流階級向けにつくりだされたロココ様式にゴシックと中国趣味を加えた様式である。
漱石が英語教師を辞め、朝日新聞社の専属作家としてデビューした第一作目の『虞美人草』には、主人公の甲野欽吾が使っている亡父の西洋風書斎の描写がある。
“部屋は南を向く。仏蘭西式の窓は床を去る事五寸にして、すぐ硝子となる。(中略)そのほかに洋卓がある。チッペンデールとヌーヴォーを取り合せたような組み方に、思い切った今様を華奢な昔に忍ばして、室の真中を占領している。(中略)洋風の二間は、父が手狭な住居を、二十世紀に取り拡げた便利の結果である。趣味に叶うと云わんよりは、むしろ実用に逼られて、時好の程度に己れを委却した建築である。”
作家が場面設定である建物やインテリアに言及することは多いが、舶来品をつぶさに描写しているのは、英国に留学し、本場の建築様式や家具を目にしていたからこそだろう。洋卓(デスク)のデザインの「チッペンデール」とは、18世紀に英国の上流階級向けにつくりだされたロココ様式にゴシックと中国趣味を加えた様式である。
ヌーヴォーは、アール・ヌーヴォーの略で、19世紀末から20世紀初頭に仏蘭西やベルギーで流行した「新しい芸術」運動をさす。産業革命以降、機械的になった実用品に、芸術性を取り戻そうと、手作業による緩やかな曲線や、草花などの有機的なモチーフを使った様式だ。
日本の「俳句的」インテリア
漱石の表現活動は、小説に留まらず、生涯に俳句を約2500句、漢詩を200首超、英詩や和歌もいくつか残している。雑誌『俳味』(1911年6月1日号)では、俳句という簡素な言葉の芸術性と、簡素な日本的しつらえがつくりだす空間美の共通性を、次のように語っている。
“俳諧の趣味ですか、西洋には有りませんな。(中略)日本獨特と言つていゝでせう。一體日本と西洋とは家屋の建築裝飾なぞからして違つて居るので、日本では短冊のやうな小さなものを掛けて置いても一の裝飾になるが、西洋のやうな大きな構造ではあんな小ぽけなものを置いても一向目に立たない。(中略)日本の家屋が簡便である如く、俳句も亦簡便なものである。”
漱石の表現活動は、小説に留まらず、生涯に俳句を約2500句、漢詩を200首超、英詩や和歌もいくつか残している。雑誌『俳味』(1911年6月1日号)では、俳句という簡素な言葉の芸術性と、簡素な日本的しつらえがつくりだす空間美の共通性を、次のように語っている。
“俳諧の趣味ですか、西洋には有りませんな。(中略)日本獨特と言つていゝでせう。一體日本と西洋とは家屋の建築裝飾なぞからして違つて居るので、日本では短冊のやうな小さなものを掛けて置いても一の裝飾になるが、西洋のやうな大きな構造ではあんな小ぽけなものを置いても一向目に立たない。(中略)日本の家屋が簡便である如く、俳句も亦簡便なものである。”
ガラス戸と近代
漱石が、晩年の死生観を語った最後の随筆が、『硝子戸の中』である。この回想的作品の終章は、書斎に籠もり、生と死をみつめ、ずっと冬のような心持ちでいた漱石が、自らと世間を隔てるガラス戸を開け、うららかな春光を浴び、静謐な心を取り戻した様子で終わる。
“家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸を開け放って、静かな春の光に包まれながら、恍惚とこの稿を書き終るのである。そうした後で、私はちょっと肱を曲げて、この縁側に一眠り眠るつもりである。”
終の棲家となった新宿区早稲田の借家は、「漱石山房」とよばれ、書斎の三方の壁にはガラス窓がはめられていた。今では当たり前となったガラス製の建具だが、日本の個人住宅向けの建材としてガラスが普及したのは、明治後期である。それ以前の庶民の住まいの開口部は、木戸や紙障子で内と外が仕切られていた。窓や壁をしっかりと建てる西洋と比べ、日本の建築では、明解な内と外の空間の対立がなく、四季の移ろいを感じ、自然と共生する住まいづくりがなされていた。となれば、ガラス戸とは、風景が見えるばかりで、人間の世界(室内)と自然の世界(屋外)を隔ててしまうもの。それは、人間と自然を分断する西洋近代に通じるものだったかもしれない。
漱石が、晩年の死生観を語った最後の随筆が、『硝子戸の中』である。この回想的作品の終章は、書斎に籠もり、生と死をみつめ、ずっと冬のような心持ちでいた漱石が、自らと世間を隔てるガラス戸を開け、うららかな春光を浴び、静謐な心を取り戻した様子で終わる。
“家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸を開け放って、静かな春の光に包まれながら、恍惚とこの稿を書き終るのである。そうした後で、私はちょっと肱を曲げて、この縁側に一眠り眠るつもりである。”
終の棲家となった新宿区早稲田の借家は、「漱石山房」とよばれ、書斎の三方の壁にはガラス窓がはめられていた。今では当たり前となったガラス製の建具だが、日本の個人住宅向けの建材としてガラスが普及したのは、明治後期である。それ以前の庶民の住まいの開口部は、木戸や紙障子で内と外が仕切られていた。窓や壁をしっかりと建てる西洋と比べ、日本の建築では、明解な内と外の空間の対立がなく、四季の移ろいを感じ、自然と共生する住まいづくりがなされていた。となれば、ガラス戸とは、風景が見えるばかりで、人間の世界(室内)と自然の世界(屋外)を隔ててしまうもの。それは、人間と自然を分断する西洋近代に通じるものだったかもしれない。
縁側の心地よさ
ガラス窓に囲まれた書斎の外にあると記されている縁側にも着目したい。漱石は多くの作品の中で、登場人物が日当たりのよい縁側に出て、寝転ぶ姿を描写している。伝統的な日本家屋にある縁側は、屋内と屋外をつなぐ中間領域とされるが、漱石にとっては、さながら心安まるサンクチュアリだったのであろう。縁側の心地よさは、現代の日本の住宅デザインにおいても人気がある。それどころか、海外でも自然とつながるフレキシブルな空間をつくる方法として浸透している。
参考文献
若山滋『漱石まちをゆく』(彰国社)
川床優『漱石のデザイン論』(六曜社)
広岡祐『漱石と歩く、明治の東京』(祥伝社)
武田勝彦『漱石の東京』(早稲田大学出版部)
石崎等/中山繁信『夏目漱石博物館』(彰国社)
高橋敏夫/田村景子(監修)『文豪の家』(株式会社エクスナレッジ)
加賀乙彦・他『群像 日本の作家1 夏目漱石』(小学館)
藤森照信『建築史的モンダイ』(ちくま新書)
こちらもあわせて
成功する設計のヒント:「縁側」を活用して家を大きく使う
内と外の世界を緩やかにつなぐ、ニッポンの縁側
作家ジャック・ロンドンが暮らした広大な牧場と屋敷をたずねて
『ジャングル・ブック』が生まれた家をたずねて
教えてHouzz
小説や映画の中にでてくる住宅や建築で気になるものはありますか?
ガラス窓に囲まれた書斎の外にあると記されている縁側にも着目したい。漱石は多くの作品の中で、登場人物が日当たりのよい縁側に出て、寝転ぶ姿を描写している。伝統的な日本家屋にある縁側は、屋内と屋外をつなぐ中間領域とされるが、漱石にとっては、さながら心安まるサンクチュアリだったのであろう。縁側の心地よさは、現代の日本の住宅デザインにおいても人気がある。それどころか、海外でも自然とつながるフレキシブルな空間をつくる方法として浸透している。
参考文献
若山滋『漱石まちをゆく』(彰国社)
川床優『漱石のデザイン論』(六曜社)
広岡祐『漱石と歩く、明治の東京』(祥伝社)
武田勝彦『漱石の東京』(早稲田大学出版部)
石崎等/中山繁信『夏目漱石博物館』(彰国社)
高橋敏夫/田村景子(監修)『文豪の家』(株式会社エクスナレッジ)
加賀乙彦・他『群像 日本の作家1 夏目漱石』(小学館)
藤森照信『建築史的モンダイ』(ちくま新書)
こちらもあわせて
成功する設計のヒント:「縁側」を活用して家を大きく使う
内と外の世界を緩やかにつなぐ、ニッポンの縁側
作家ジャック・ロンドンが暮らした広大な牧場と屋敷をたずねて
『ジャングル・ブック』が生まれた家をたずねて
教えてHouzz
小説や映画の中にでてくる住宅や建築で気になるものはありますか?
おすすめの記事
地域別特集
美しい伝統を守りながら、現代的技術で暮らしを快適に。京都に建つ14の住まい
文/藤間紗花
Houzzでみつけた、京都市内に建つ住まいの事例を、手がけた専門家の解説とともにご紹介します。
続きを読む
写真特集
Houzzでみつけた日本の都市に建つ家まとめ
文/藤間紗花
国内12エリアに建つ住まいの特徴を、各地域の専門家の解説とともにご紹介してきたシリーズ。これまでご紹介した記事を、専門家から伺った各都市の住まいの特徴とともに、まとめてお届けします。
続きを読む
地域別特集
地域の自然と眺望を活かした、明るく気持ちのいい空間。仙台に建つ13の住まい
文/藤間紗花
宮城県中部に位置する仙台市。Houzzでみつけた仙台市内に建つ住まいの事例を、手がけた専門家の解説とともにご紹介します。
続きを読む
地域別特集
少ない日照時間でも明るさを取り込む。新潟市の家11選
文/藤間紗花
新潟県北東部に位置する新潟市。Houzzでみつけた新潟市内に建つ住まいの事例を、手がけた専門家の解説とともにご紹介します。
続きを読む
地域別特集
唯一無二の眺めと自分らしいデザインを楽しむ。広島市に建つ14の住まい
文/藤間紗花
広島県西部に位置する広島市。Houzzでみつけた広島市内に建つ住まいの事例を、手がけた専門家の解説とともにご紹介します。
続きを読む
地域別特集
風と光を気持ちよく届けるデザインを都市部で実現。大阪に建つ12の住まい
文/藤間紗花
近畿地方の中心都市である、大阪府・大阪市。Houzzでみつけた大阪市内に建つ住まいの事例を、手がけた専門家の解説とともにご紹介します。
続きを読む
建築・デザイン
日本的感性を象徴する「茶室」の伝統と革新性
茶道とともに成立し500年にわたり発展してきた茶室。茶聖・千利休が伝統建築を革新して生まれた茶室は、今も「利休の精神」により革新され続け、新しい表現を生み出し続けている建築形式です。
続きを読む