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絶対に知っておきたい名作住宅;ミース・ファン・デル・ローエの《トゥーゲントハット邸》
ミースが1930年にチェコに完成させた、モダン住宅の傑作《トゥーゲントハット邸》。修復後の美しい写真とともに、詳しくご紹介します。
John Hill
2016年10月24日
ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエが、かの有名な《ファンズワース邸》を完成させる20年前、そして米国に移住する7年前にあたる1930年に、裕福なトゥーゲントハット夫妻のために設計していたのが《トゥーゲントハット邸》である。
フリッツ・トゥーゲントハットとの結婚祝いとして、妻グレテ(旧姓ヴァイス・レーフ=ベーア)は、彼女の一族が所有する土地から2000平方メートルほどの区画を贈られた。現在のチェコ共和国、ブルノ市のチェルノポルニ通り沿いにある傾斜した土地である。ミースはこの敷地のなかに、乱平面の3つの階からなる住宅を設計した。いちばん上の2階には、エントランス、ベッドルーム、乳母の部屋、テラス、子どもの遊び部屋、ガレージと運転手の部屋が位置している。1階にはリビングエリアとキッチン、温室、もうひとつのテラスがあり、地下階はユーティリティ室となっている。
ひとつながりの流れるようなオープンプランで、構造柱を壁から離した設計は、ミースがわずか1年前に手掛けていた《バルセロナ・パビリオン》を住宅にしたかのようにも見える。この邸宅は、のちに1950年代のアメリカでミースが手掛けた高層オフィスビルに多く見られる「ユニバーサル・スペース」の先駆けとなる存在でもあるが、土地の特性と住まい手という条件を考慮して設計されている点が異なるだろう。しかし、ユダヤ系であったトゥーゲントハット一家は1938年にスイスに逃れ、その後南米に移住したため、この家で暮らした期間はわずかであった。
この建物は、のちに学校と病院(児童精神科)として使われるようになったが、それはミースのオープンプラン設計が適していたためでもあるだろう。その後、邸宅の所有権は自治体に渡り、1980年代に修復作業が行われる。2001年にユネスコ世界遺産に登録され、その10年後からさらなる修復工事を経て、2012年3月に一般公開に至った。今回の写真は、最新の修復後に撮影されたものである。
概要
竣工年:1930年
設計:ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ
所在地:チェコ共和国 ブルノ市
規模:延床面積およそ240平方メートル
見学について:事前予約制のガイド付きツアーあり(現在休止中)
フリッツ・トゥーゲントハットとの結婚祝いとして、妻グレテ(旧姓ヴァイス・レーフ=ベーア)は、彼女の一族が所有する土地から2000平方メートルほどの区画を贈られた。現在のチェコ共和国、ブルノ市のチェルノポルニ通り沿いにある傾斜した土地である。ミースはこの敷地のなかに、乱平面の3つの階からなる住宅を設計した。いちばん上の2階には、エントランス、ベッドルーム、乳母の部屋、テラス、子どもの遊び部屋、ガレージと運転手の部屋が位置している。1階にはリビングエリアとキッチン、温室、もうひとつのテラスがあり、地下階はユーティリティ室となっている。
ひとつながりの流れるようなオープンプランで、構造柱を壁から離した設計は、ミースがわずか1年前に手掛けていた《バルセロナ・パビリオン》を住宅にしたかのようにも見える。この邸宅は、のちに1950年代のアメリカでミースが手掛けた高層オフィスビルに多く見られる「ユニバーサル・スペース」の先駆けとなる存在でもあるが、土地の特性と住まい手という条件を考慮して設計されている点が異なるだろう。しかし、ユダヤ系であったトゥーゲントハット一家は1938年にスイスに逃れ、その後南米に移住したため、この家で暮らした期間はわずかであった。
この建物は、のちに学校と病院(児童精神科)として使われるようになったが、それはミースのオープンプラン設計が適していたためでもあるだろう。その後、邸宅の所有権は自治体に渡り、1980年代に修復作業が行われる。2001年にユネスコ世界遺産に登録され、その10年後からさらなる修復工事を経て、2012年3月に一般公開に至った。今回の写真は、最新の修復後に撮影されたものである。
概要
竣工年:1930年
設計:ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ
所在地:チェコ共和国 ブルノ市
規模:延床面積およそ240平方メートル
見学について:事前予約制のガイド付きツアーあり(現在休止中)
西側からは3つの階がすべて見えているのだが、巧みなヴォリュームの配置により、そのような印象は受けない。水平に伸びる地上1階のガラス窓が目を引く一方で、2階部分は奥まり、ほとんど隠れてしまっている。いちばん下の階は地上に見えている部分が少なく、ほぼ開口部のない壁面となっている。
道路に面した東側からは、平屋建てであるかのように見える。水平に広がる外観、大きなガラス壁、ガレージの入口をファサードの中央に配置している点など、1930年には大きな物議を醸したことだろう。現代人の目で見ても、通りからの姿はほとんど住宅のようには見えない。
右側のガレージと中央のガラスの壁の間には隙間があり、建物の向こうにあるランドスケープを切り取って見通すことができる。その眺めに引き寄せられるように進むと、家のエントランスがある。
右側のガレージと中央のガラスの壁の間には隙間があり、建物の向こうにあるランドスケープを切り取って見通すことができる。その眺めに引き寄せられるように進むと、家のエントランスがある。
曲線を描く乳白色のガラス壁は、通りの目線から玄関ドアをさりげなく隠すだけでなく、門の向こうの来客の気配を感じさせるので、住まい手もすぐに気づき、エントランスに向かうことができる。庇はたっぷりとしているが、ドア前に設けたステップはわずかな高さだ。とはいえ、このステップの存在は重要で、とくに石の種類が変化している点は大きな意味がある。
中に入ると、床はミースが好んだトラバーチンが貼られている。この部分を見ると、ガラスが曲線状である理由がわかるだろう。この写真の向かって左側と手前に寝室が位置しており、階段を下りるとリビングスペースがある。
主な生活空間である1階の図面がこちら。リビングエリア、キッチン、温室、テラスがある。上階からの階段が中央にあり、その下に描かれているのは地下のユーティリティ室に下りるためのらせん階段だ。
階段で180度転回して1階に下りてくると、右手側(図面の下方)に外の景色を望みながら、ひろびろとしたオープンスペースに出る。この空間を区切っているのが、2つの壁(1つは直線、もう1つは曲線)と、いくつもの細い柱である。一見、ひとつながりの空間に見えるのだが、実はユニークな手法で区切られた小さいエリアの集まりなのだ。
階段で180度転回して1階に下りてくると、右手側(図面の下方)に外の景色を望みながら、ひろびろとしたオープンスペースに出る。この空間を区切っているのが、2つの壁(1つは直線、もう1つは曲線)と、いくつもの細い柱である。一見、ひとつながりの空間に見えるのだが、実はユニークな手法で区切られた小さいエリアの集まりなのだ。
階段を下りてまっすぐ進むと、直線の壁の脇、温室に面した場所にテーブルと椅子が置かれたエリアがある。この壁は、《バルセロナ・パビリオン》で使われたものと同じくオニキス製だ。
天井にはレールが渡されており、ベルベットのカーテンでそれぞれのエリアを区切ったり、外を遮ったりできるよう工夫されている。もう1つ注目したいのが、柱と壁が一体化しておらず、分離していること。これは当時としては珍しいディテールだ。
天井にはレールが渡されており、ベルベットのカーテンでそれぞれのエリアを区切ったり、外を遮ったりできるよう工夫されている。もう1つ注目したいのが、柱と壁が一体化しておらず、分離していること。これは当時としては珍しいディテールだ。
オニキスの壁は、5枚のオニキス板を天井まで並べて貼ったもの。圧倒的なスケールの大きさと見事な縞模様でひときわ目を引く。うち2枚のパネルをブックマッチ(本を開いたように左右対称とする)で配置しており、壁全体で見るとやや中心がずれたアシメトリーな効果を演出している。
家全体のなかではそれほど大きい要素ではないかもしれないが、ミースにとってこの壁は非常に重要で、自らアトラス山脈の石切り場を訪れて石を選び、切断や設置も監督した。
家全体のなかではそれほど大きい要素ではないかもしれないが、ミースにとってこの壁は非常に重要で、自らアトラス山脈の石切り場を訪れて石を選び、切断や設置も監督した。
内装は、造作家具に加え、《バルセロナ・チェア》(前年に手掛けた《バルセロナ・パビリオン》から命名)や、この邸宅のためにデザインしたトゥーゲントハット・チェアなど、ミース自身の作品で仕上げている。
伸縮可能なオーニングで、西向きの大きなガラス壁から入る直射日光を調整することができる。さらに、このガラス板は下方にスライドして地下階にあるポケット部分に収容される仕組みになっており、現在は一般的となったスライド式ガラスウォールの先駆け的な存在だ。
ガラス窓の電動制御装置や、当時の最先端の冷暖房システム、また建設と内装の全体的な質の高さのため、邸宅建設の費用はかさみ、当時の一般的な小規模住宅の30倍の工費になったという。
伸縮可能なオーニングで、西向きの大きなガラス壁から入る直射日光を調整することができる。さらに、このガラス板は下方にスライドして地下階にあるポケット部分に収容される仕組みになっており、現在は一般的となったスライド式ガラスウォールの先駆け的な存在だ。
ガラス窓の電動制御装置や、当時の最先端の冷暖房システム、また建設と内装の全体的な質の高さのため、邸宅建設の費用はかさみ、当時の一般的な小規模住宅の30倍の工費になったという。
ふたたび2階に戻り、こちらが夫のフリッツの寝室。下の階には見当たらなかったドアがここでは使われている。
ミースの「神は細部に宿る」という言葉は有名だが、そんな彼がよく用いたディテールが、天井までの高さのあるドアだ。住宅でも、オフィスビルでも、それ以外の建物でも取り入れている。こちらの木製ドアについては、トゥーゲントハット夫妻は当初は賛成しなかったのだが、ミースは主張を曲げなかった。
ミースの「神は細部に宿る」という言葉は有名だが、そんな彼がよく用いたディテールが、天井までの高さのあるドアだ。住宅でも、オフィスビルでも、それ以外の建物でも取り入れている。こちらの木製ドアについては、トゥーゲントハット夫妻は当初は賛成しなかったのだが、ミースは主張を曲げなかった。
子どもたちの寝室である2つの部屋は、ホテルのスイートのようにつながっている。造作のクローゼットと本棚があり、1階のライブラリーにもこの本棚と同じものが使われている。オニキス壁と同じように、木目の模様をブックマッチした板材を用いており、とくにクローゼットに力強いリズムを作り出している。
最後に、ミース自身が手掛けたディテールをいくつか見てみよう。まずは、《バルセロナ・パビリオン》を彷彿とさせる、金属の被覆を施した、断面が十字型の柱。かなり複雑で絶妙なディテールで、丸や四角よりも柱を小さくスリムに見せる効果があると同時に、美しい影のラインを作り出す。
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