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5分でわかるデザイン様式:リバイバルデザインと近代化、家庭志向のヴィクトリアンスタイル
今も根強いファンの多い、英国ヴィクトリア時代の建築・インテリアデザインの特徴と、それらが生まれた歴史的、社会的背景について解説します。
西谷典子|Noriko Nishiya
2016年12月18日
ヴィクトリア女王の治世時代のイギリスは、古代ローマ帝国以上に植民地を広げ、大英帝国として最も栄えた時期を迎えていました。最近、現在のエリザベス2世に在位記録を塗り替えられましたが、ヴィクトリア女王の在位は1837年から1901年までと非常に長く、63年7ヶ月という時の流れの中でさまざまな過去のデザインが再び蘇り、自由に組み合わされた、デザイン史のうえでも大変興味深い時代といえます。
ヴィクトリア女王はアルバート公との間に9人の子供を授かり、夫婦の仲睦まじさもよく知られ、家庭の幸せを尊重する社会傾向の象徴のような存在としても君臨しました。「ホームスウィートホーム」(楽しき我が家) という言葉が、同タイトルの曲とともにこの時代の流行語にもなり、近代化が進み中産階級が台頭する中で、インテリアもそれまでより温かみや親しみのあるテイストへと、徐々に変わっていきます。
ヴィクトリア女王はアルバート公との間に9人の子供を授かり、夫婦の仲睦まじさもよく知られ、家庭の幸せを尊重する社会傾向の象徴のような存在としても君臨しました。「ホームスウィートホーム」(楽しき我が家) という言葉が、同タイトルの曲とともにこの時代の流行語にもなり、近代化が進み中産階級が台頭する中で、インテリアもそれまでより温かみや親しみのあるテイストへと、徐々に変わっていきます。
中産階級の大家族の家
蒸気機関の発明で機械による大量生産が可能になり、その燃料になる石炭産業、機械をつくる鉄鋼業、造船業、そして植民地からの綿を使った紡績業など、さまざまな産業が飛躍的な進歩を遂げたヴィクトリア時代。多くの中産階級を生み出し、人口はさらに増加していきました。この当時の家庭では子供が10人以上ということも少なくなく、平均5、6人の子供がいるという大家族が一般的だったので、ヴィクトリア時代に建てられた郊外の家屋は、大変広く大きいのも特徴です。
蒸気機関の発明で機械による大量生産が可能になり、その燃料になる石炭産業、機械をつくる鉄鋼業、造船業、そして植民地からの綿を使った紡績業など、さまざまな産業が飛躍的な進歩を遂げたヴィクトリア時代。多くの中産階級を生み出し、人口はさらに増加していきました。この当時の家庭では子供が10人以上ということも少なくなく、平均5、6人の子供がいるという大家族が一般的だったので、ヴィクトリア時代に建てられた郊外の家屋は、大変広く大きいのも特徴です。
カトリック解放とゴシックリバイバル
ヴィクトリア女王以前の、放蕩生活が続いた国王たちのイメージを変えるのは自分の役目と自覚していたのか、ヴィクトリア女王はモラルに厳しく、宗教心の強い人でした。この若き女王のビジョンに国民も影響を受け、この時代の人々は宗教への関心が非常に高く、教会が日常の暮らしに深く関わっていました。
これより前、イギリスのカトリック教徒にはさまざまな社会的差別があり、大学に行けず、国会議員に立候補もできませんでした。しかし1829年のローマ・カトリック教徒救済法の可決により彼らは解放され、街にもカトリックの教会が建てられるようになります。この時期、早々にカトリックに改宗していたフランス系の建築家、オーガスタス・ウェルビー・ノースモア・ピュージンは、教会建築の仕事を次々と任されるようになり、やがてヴィクトリア時代のゴシックリバイバルの立役者として有名になります。
ヴィクトリア女王以前の、放蕩生活が続いた国王たちのイメージを変えるのは自分の役目と自覚していたのか、ヴィクトリア女王はモラルに厳しく、宗教心の強い人でした。この若き女王のビジョンに国民も影響を受け、この時代の人々は宗教への関心が非常に高く、教会が日常の暮らしに深く関わっていました。
これより前、イギリスのカトリック教徒にはさまざまな社会的差別があり、大学に行けず、国会議員に立候補もできませんでした。しかし1829年のローマ・カトリック教徒救済法の可決により彼らは解放され、街にもカトリックの教会が建てられるようになります。この時期、早々にカトリックに改宗していたフランス系の建築家、オーガスタス・ウェルビー・ノースモア・ピュージンは、教会建築の仕事を次々と任されるようになり、やがてヴィクトリア時代のゴシックリバイバルの立役者として有名になります。
建築家ピュージンの3代にわたる活躍
ピュージンの父、オーギュスト・シャルルは、フランス革命の頃パリからイギリスに渡り、建築家ジョン・ナッシュのもとで製図師や建築家として働き、その知識とスキルを生かして多くの建築に関する著書を出版した人でした。特にゴシック建築に興味を持っていた父と同様、オーガスタス・ピュージンも、ゴシック建築や装飾デザインのスペシャリストとなりました。
ピュージンはその後、ウエストミンスター宮殿(国会議事堂)の装飾デザインなども任されて活躍しますが、残念なことに40歳の若さで亡くなります。彼のスタイルを引き継いだ息子エドワードは、その後18年で100以上のカトリック教会を建設します。本当の意味でヴィクトリア時代のゴシック様式を流行させたのは、このエドワード・ピュージンだともいわれています。
ピュージンの父、オーギュスト・シャルルは、フランス革命の頃パリからイギリスに渡り、建築家ジョン・ナッシュのもとで製図師や建築家として働き、その知識とスキルを生かして多くの建築に関する著書を出版した人でした。特にゴシック建築に興味を持っていた父と同様、オーガスタス・ピュージンも、ゴシック建築や装飾デザインのスペシャリストとなりました。
ピュージンはその後、ウエストミンスター宮殿(国会議事堂)の装飾デザインなども任されて活躍しますが、残念なことに40歳の若さで亡くなります。彼のスタイルを引き継いだ息子エドワードは、その後18年で100以上のカトリック教会を建設します。本当の意味でヴィクトリア時代のゴシック様式を流行させたのは、このエドワード・ピュージンだともいわれています。
ゴシックの影響を受けたタイル模様
オーギュスト・シャルル・ピュージンが出版した本や教会建築の影響で、一般の家のインテリアにも、中央がとがった尖塔アーチや四つ葉デザインのカトルフォイルなど、ゴシック様式特有のデザインが取り入れられるようになります。この時代の中産階級の住まいにはタイルを敷きつめたエントランスがよく見られますが、ここにもゴシック様式の幾何学模様が使われました。
オーギュスト・シャルル・ピュージンが出版した本や教会建築の影響で、一般の家のインテリアにも、中央がとがった尖塔アーチや四つ葉デザインのカトルフォイルなど、ゴシック様式特有のデザインが取り入れられるようになります。この時代の中産階級の住まいにはタイルを敷きつめたエントランスがよく見られますが、ここにもゴシック様式の幾何学模様が使われました。
素材としてのタイルの普及は、ヴィクトリア時代の人口増大による安い労働力、機械による大量生産が可能にしたものです。耐久性があって衛生的な素材であるという理由で、タイルは公共の建物にも多く使われるようになり、モザイクタイルはヴィクトリアンスタイルの典型的な特徴のひとつとなりました。
暖炉を彩ったハンドペイントタイル
ヴィクトリア時代後半になると、こういったタイルの中でも高価なものは、部屋のフォーカルポイントとなる暖炉にもあしらわれるようになります。なかでも〈ミントン〉はタイル生産者の先駆けで、装飾デザインを担当したピュージンの依頼で、1842年から国会議事堂をはじめとする大きなプロジェクトにタイルを供給するようになります。よく知られた高級テーブルウェアだけに留まらず、住宅素材という新しいビジネスでも大成功をおさめた〈ミントン〉。〈ウェッジウッド〉とともに、これらのアンティークタイルはコレクターの間でも人気で、特にレアなハンドペイントのものは高価な値段がつけられています。
ヴィクトリア時代後半になると、こういったタイルの中でも高価なものは、部屋のフォーカルポイントとなる暖炉にもあしらわれるようになります。なかでも〈ミントン〉はタイル生産者の先駆けで、装飾デザインを担当したピュージンの依頼で、1842年から国会議事堂をはじめとする大きなプロジェクトにタイルを供給するようになります。よく知られた高級テーブルウェアだけに留まらず、住宅素材という新しいビジネスでも大成功をおさめた〈ミントン〉。〈ウェッジウッド〉とともに、これらのアンティークタイルはコレクターの間でも人気で、特にレアなハンドペイントのものは高価な値段がつけられています。
繰り返し流行するリバイバルデザイン
ヴィクトリア時代初期はネオクラシックスタイルがまだ色濃く残っていましたが、その後、再びさまざまな時代の様式が登場します。たとえば1851年にはスコットランドにあるバルモラル宮殿の増改築が始まり、ここでアルバート公は、円錐の塔や急な勾配の屋根などがある、フランスのルネサンス様式を取り入れた古城のような宮殿をつくらせます。その後、このルネサンス風、古城風スタイルは「スコティッシュ・バロニアル様式」と呼ばれるようになります。
ヴィクトリア時代初期はネオクラシックスタイルがまだ色濃く残っていましたが、その後、再びさまざまな時代の様式が登場します。たとえば1851年にはスコットランドにあるバルモラル宮殿の増改築が始まり、ここでアルバート公は、円錐の塔や急な勾配の屋根などがある、フランスのルネサンス様式を取り入れた古城のような宮殿をつくらせます。その後、このルネサンス風、古城風スタイルは「スコティッシュ・バロニアル様式」と呼ばれるようになります。
多様化し、広がった窓のデザイン
イタリア・ルネサンス時代の「イタリアネート様式」と呼ばれるスタイルも登場しますが、これはルネサンス時代のアーチ型の窓が2つ、または3つと続いているのが特徴です。ほかに、外壁と屋根の間を走る凹凸のあるモールディングも、イタリア・ルネサンスの様式からとったものです。
1850年代には窓にかけられていた税が廃止されたため、これ以降、窓も大きくとることができるようになり、大きく張り出した窓「ベイウィンドウ」も人気を集めました。
イタリア・ルネサンス時代の「イタリアネート様式」と呼ばれるスタイルも登場しますが、これはルネサンス時代のアーチ型の窓が2つ、または3つと続いているのが特徴です。ほかに、外壁と屋根の間を走る凹凸のあるモールディングも、イタリア・ルネサンスの様式からとったものです。
1850年代には窓にかけられていた税が廃止されたため、これ以降、窓も大きくとることができるようになり、大きく張り出した窓「ベイウィンドウ」も人気を集めました。
レンガ造りとダッチゲイブルズ
窓にかけられた税だけでなく、ジョージアン時代に軍事費を捻出するために制定されたレンガにかかる税金も、1850年に廃止になりました。この頃には機械によるレンガの大量生産が可能になっており、レンガは安価な建材としてあっという間に普及するようになります。
この結果、写真のような赤レンガと白い窓サッシというコンビネーションの外観デザインがリバイバルします。これは、18世紀前半のオランダ・ルネサンス期、イギリスではクイーン・アンの時代に主流だったため「クイーン・アンスタイル」とも呼ばれます。ちなみに、建物右側のトップにある、曲線を描いた破風(はふ)はオランダ・バロック期の「ダッチゲイブルズ」または「フレミッシュゲイブルズ」と呼ばれるもので、これもリバイバルして、ヴィクトリア時代の住宅建築のアイコン的な装飾となりました。
窓にかけられた税だけでなく、ジョージアン時代に軍事費を捻出するために制定されたレンガにかかる税金も、1850年に廃止になりました。この頃には機械によるレンガの大量生産が可能になっており、レンガは安価な建材としてあっという間に普及するようになります。
この結果、写真のような赤レンガと白い窓サッシというコンビネーションの外観デザインがリバイバルします。これは、18世紀前半のオランダ・ルネサンス期、イギリスではクイーン・アンの時代に主流だったため「クイーン・アンスタイル」とも呼ばれます。ちなみに、建物右側のトップにある、曲線を描いた破風(はふ)はオランダ・バロック期の「ダッチゲイブルズ」または「フレミッシュゲイブルズ」と呼ばれるもので、これもリバイバルして、ヴィクトリア時代の住宅建築のアイコン的な装飾となりました。
豊かになった中産階級の暮らし
ヴィクトリア時代後半の1880年代以降は、人口増加とともに郊外に新しい住宅が建ち、汽車で市内に通勤することも可能になりました。通勤に少々時間がかかる代わりに手に入れた新しい家では、ゆとりのあるスペースや庭、そしてバスルームもあるという快適な暮らしを実現することができたのです。
当時の人々の入浴は1週間に1度ペースで、召使いがジャグでお湯を何度も運んでいましたが、1870~80年代からは、蛇口をひねるとボイラーからくるお湯が出るようになります。しかしこれは中産階級までのお話で、労働者階級の人々は、町中のいわゆる銭湯でシャワーやお風呂を使っていたようです。
ヴィクトリア時代後半の1880年代以降は、人口増加とともに郊外に新しい住宅が建ち、汽車で市内に通勤することも可能になりました。通勤に少々時間がかかる代わりに手に入れた新しい家では、ゆとりのあるスペースや庭、そしてバスルームもあるという快適な暮らしを実現することができたのです。
当時の人々の入浴は1週間に1度ペースで、召使いがジャグでお湯を何度も運んでいましたが、1870~80年代からは、蛇口をひねるとボイラーからくるお湯が出るようになります。しかしこれは中産階級までのお話で、労働者階級の人々は、町中のいわゆる銭湯でシャワーやお風呂を使っていたようです。
ヴィクトリア時代のバスルーム事情
それより少し前、1860~70年代の貴族や裕福な人々の家では、下水道設備が整い、お湯は出ないまでもすでにバスルームというものがつくられていました。それまでは寝室として使われていた小さな部屋などがバスルームに改装されたので、暖炉や壁紙もそのまま残され、バスタブも木のパネリングで覆われているという、まるで寝室そのままのような内装でした。
それが1880年代になると、衛生的という理由もあって流行したタイルが貼られ、バスタブもホーロー製の近代的なデザインに変わり、シャワーも登場します。こういった背景もあり、バスルームに関しては両極端のデザイン、つまりトラディショナルな前者と近代的な後者のどちらも、典型的なヴィクトリアンスタイルといえます。
それより少し前、1860~70年代の貴族や裕福な人々の家では、下水道設備が整い、お湯は出ないまでもすでにバスルームというものがつくられていました。それまでは寝室として使われていた小さな部屋などがバスルームに改装されたので、暖炉や壁紙もそのまま残され、バスタブも木のパネリングで覆われているという、まるで寝室そのままのような内装でした。
それが1880年代になると、衛生的という理由もあって流行したタイルが貼られ、バスタブもホーロー製の近代的なデザインに変わり、シャワーも登場します。こういった背景もあり、バスルームに関しては両極端のデザイン、つまりトラディショナルな前者と近代的な後者のどちらも、典型的なヴィクトリアンスタイルといえます。
照明の近代化、ガスライトの普及
照明もヴィクトリア時代から近代化が始まります。それまではオイルランプやキャンドルが主流で、オイルの原料としては菜種油やオリーブ油などが使われていましたが、1850年頃からは石炭から作られるパラフィンが主流になっていきました。
ガス灯は工場や一部の街灯として1820年代から使われるようになっていましたが、秋冬だけと期間限定、しかも満月の日はつかないという、かなりあてにならないものでした。1850年頃からは徐々に新しい家屋にもガス灯の導入が進み、天井や壁に設置されて、家の中がさらに明るく照らされるようになります。
照明もヴィクトリア時代から近代化が始まります。それまではオイルランプやキャンドルが主流で、オイルの原料としては菜種油やオリーブ油などが使われていましたが、1850年頃からは石炭から作られるパラフィンが主流になっていきました。
ガス灯は工場や一部の街灯として1820年代から使われるようになっていましたが、秋冬だけと期間限定、しかも満月の日はつかないという、かなりあてにならないものでした。1850年頃からは徐々に新しい家屋にもガス灯の導入が進み、天井や壁に設置されて、家の中がさらに明るく照らされるようになります。
こまごまと飾られた家庭的なインテリア
富を得るようになった中産階級の家には、大きなガラスキャビネットや「ワット・ノット」(名前の由来はこちらの記事を参照)といった家具が置かれ、オーナメントや銀食器、紅茶のセットなどが、ゲストの目に留まるように飾られました。家の中は小物や絵画などで埋め尽くされ、ミニマリストとは程遠い、こまごまと飾り立てられた家庭的でコージーなインテリアが流行になります。ヴィクトリア女王が主導した家庭重視の風潮もあり、ほっとできるアットホームな空間が好まれるようになるのです。
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不思議な名前のアンティーク家具、その呼び名の由来と意味
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モラルに厳しい「男女別々」文化
いっぽう、モラルに厳しい側面もあったヴィクトリア時代は、「男女は別々に」という生活風習が定着し、夫婦の寝室は別々、もしくはツインベッドが主流でした。セミダブルのようなサイズもありましたが、これはひとつのベッドを家族でシェアしなければならない、貧しい労働者階級の人々用として主に使われていました。
いっぽう、モラルに厳しい側面もあったヴィクトリア時代は、「男女は別々に」という生活風習が定着し、夫婦の寝室は別々、もしくはツインベッドが主流でした。セミダブルのようなサイズもありましたが、これはひとつのベッドを家族でシェアしなければならない、貧しい労働者階級の人々用として主に使われていました。
多様な用途をもつヴィクトリアン家具
女性のベッドルームにはフェミニンな花柄の壁紙を貼ることが流行し、いわゆる洗面所代わりのウォッシュスタンドや、鏡台も人気のアイテムでした。服を何着も持てるようになった中産階級の家には、姿見になる2枚の大きな鏡がついたワードローブなど、さまざまな用途の家具が置かれていました。大量生産も可能となったこの時代の家具は現在アンティークとなり、日本にも数多く輸入されています。
女性のベッドルームにはフェミニンな花柄の壁紙を貼ることが流行し、いわゆる洗面所代わりのウォッシュスタンドや、鏡台も人気のアイテムでした。服を何着も持てるようになった中産階級の家には、姿見になる2枚の大きな鏡がついたワードローブなど、さまざまな用途の家具が置かれていました。大量生産も可能となったこの時代の家具は現在アンティークとなり、日本にも数多く輸入されています。
ヴィクトリア時代は、中世のさまざまなデザインが蘇ったエクレクティックスタイルの時代ともいえます。この「ヴィクトリアン・エクレクティックスタイル」はその後もさらに深く掘り下げられ、1880年頃にはまた、あるイギリスらしいスタイルが誕生します。日本の文化や芸術も関わっているこのスタイルのお話は、また次回に。
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