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キングス・ロードのルドルフ・シンドラー自邸を訪ねて
南カリフォルニアのモダニズム住宅は、今でも多くの人に影響を与えている。
Colin Flavin
2018年9月10日
カリフォルニア、ウエスト・ハリウッドのキングス・ロードにあるルドルフ・シンドラーの自邸は、完成から95年以上が経った今でもインスピレーションにあふれている。自身にとって初めての建設プロジェクトだった自邸で、シンドラーはそれまで見たことのない真のモダン住宅を設計し、従来とは異なる方法で周辺環境に組み込むことに成功した。建築評論家で歴史家のレイナー・バンハムは1971年に「シンドラーは、まるでそれまで住宅というものが存在しなかったかのように、住宅を設計した」と記している。
キングス・ロードのシンドラー自邸の庭から見える彼のアトリエ(右)と妻ポーリンのアトリエ(中央)
撮影:ジョシュア・ホワイト
シンドラーは、ウィーンのオットー・ワーグナーやフランク・ロイド・ライトといった、当時の偉大な建築家たちと知り合う幸運に恵まれた。アメリカに移住してからライトの下で6年間働いたシンドラーは、《ホリーホック・ハウス》の建設に携わっていたライトの手伝いをするために、ロサンゼルスへ引っ越した。《ホリーホック・ハウス》が完成するとすぐに、シンドラーは初めて単独で自邸の建築プロジェクトを開始した。キングス・ロードの自邸は、《シンドラー邸》、あるいは《シンドラー・チェイス邸》としても知られている。
多くの建築家と同じく、シンドラーの頭の中はそれまでの下積みで吸収したアイデアに満ちあふれていて、そうしたアイデアを自身初のプロジェクトに組み込もうと躍起になっていた。未熟な建築家の場合、そうした試みは矛盾するアイデアのぶつかり合いに終わることもある。しかしシンドラーは、よき師らの影響を一貫したひとつのかたちとして見事に組み込んだだけでなく、カリフォルニアの温暖な気候に魅せられて生まれた自身のアイデアを発展させて、新境地を開くことにも成功した。その結果である自邸は、屋内と屋外の空間が連動するアンサンブルになり、20世紀の最も影響力のあるモダン住宅のひとつになった。
撮影:ジョシュア・ホワイト
シンドラーは、ウィーンのオットー・ワーグナーやフランク・ロイド・ライトといった、当時の偉大な建築家たちと知り合う幸運に恵まれた。アメリカに移住してからライトの下で6年間働いたシンドラーは、《ホリーホック・ハウス》の建設に携わっていたライトの手伝いをするために、ロサンゼルスへ引っ越した。《ホリーホック・ハウス》が完成するとすぐに、シンドラーは初めて単独で自邸の建築プロジェクトを開始した。キングス・ロードの自邸は、《シンドラー邸》、あるいは《シンドラー・チェイス邸》としても知られている。
多くの建築家と同じく、シンドラーの頭の中はそれまでの下積みで吸収したアイデアに満ちあふれていて、そうしたアイデアを自身初のプロジェクトに組み込もうと躍起になっていた。未熟な建築家の場合、そうした試みは矛盾するアイデアのぶつかり合いに終わることもある。しかしシンドラーは、よき師らの影響を一貫したひとつのかたちとして見事に組み込んだだけでなく、カリフォルニアの温暖な気候に魅せられて生まれた自身のアイデアを発展させて、新境地を開くことにも成功した。その結果である自邸は、屋内と屋外の空間が連動するアンサンブルになり、20世紀の最も影響力のあるモダン住宅のひとつになった。
左手には屋外用の暖炉があるシンドラー邸の中庭
撮影:ジョシュア・ホワイト
都会のキャンプ場
《ホリーホック・ハウス》の完成後、シンドラーは職を失った。1921年10月、彼は次に何をするかを考えるため、妻のポーリンとともにヨセミテ国立公園へ長期のキャンプ旅行に出かけた。それからの二人の行動は早かった。まだヨセミテでの体験が輝きを放っている1921年の年末にはすでに、シンドラーは新しいタイプのシェアハウスのデザインを完成させ、建設用の空き区画をウエストハリウッドに手配していた。
シンドラーはこの住宅の設計に、ヨセミテのカリービレッジで経験した、スライド式のキャンバス製パネルや暖を取るための焚き火、共同の作業エリア、それに建物と周辺の屋外空間との親密な関係性など、キャンプ施設のシンプルな構造とライフスタイルを組み込んだ。彼がヨセミテでの生活で得た最も重要な教訓はおそらく、自然の壮大さとキャンプ場の謙虚さとの関係性だったのかもしれない。
撮影:ジョシュア・ホワイト
都会のキャンプ場
《ホリーホック・ハウス》の完成後、シンドラーは職を失った。1921年10月、彼は次に何をするかを考えるため、妻のポーリンとともにヨセミテ国立公園へ長期のキャンプ旅行に出かけた。それからの二人の行動は早かった。まだヨセミテでの体験が輝きを放っている1921年の年末にはすでに、シンドラーは新しいタイプのシェアハウスのデザインを完成させ、建設用の空き区画をウエストハリウッドに手配していた。
シンドラーはこの住宅の設計に、ヨセミテのカリービレッジで経験した、スライド式のキャンバス製パネルや暖を取るための焚き火、共同の作業エリア、それに建物と周辺の屋外空間との親密な関係性など、キャンプ施設のシンプルな構造とライフスタイルを組み込んだ。彼がヨセミテでの生活で得た最も重要な教訓はおそらく、自然の壮大さとキャンプ場の謙虚さとの関係性だったのかもしれない。
自邸の共同キッチン、作業場、ランドリーエリア
共同生活
シンドラーは、ダイニングルーム、寝室、リビングルームのように、1つの用途でしか使用しない屋内の部屋を中心に構成された、従来の1世帯住宅のデザインを放棄した。その代わり、2組のカップル(自分とその妻、そしてクライド&マリアン・チェイス夫妻)が同居し、収入を得るための貸しアパートもある家を設計した。
それぞれの家族専用のキッチンではなく、共同のキッチン、ランドリールーム、作業場を家の中心に作り、食事の支度やそのほかの家事雑用を分担できるようにした。
共同生活
シンドラーは、ダイニングルーム、寝室、リビングルームのように、1つの用途でしか使用しない屋内の部屋を中心に構成された、従来の1世帯住宅のデザインを放棄した。その代わり、2組のカップル(自分とその妻、そしてクライド&マリアン・チェイス夫妻)が同居し、収入を得るための貸しアパートもある家を設計した。
それぞれの家族専用のキッチンではなく、共同のキッチン、ランドリールーム、作業場を家の中心に作り、食事の支度やそのほかの家事雑用を分担できるようにした。
ルドルフとポーリンのアトリエスペースは赤、シンドラー家の中庭はオレンジ、クライドとマリアンのアトリエスペースは青、チェイス家の中庭は緑で色分けされた平面図
屋内のリビングルームという概念も放棄した。シンドラーは、それぞれのカップルに専有のアトリエを2部屋ずつ、さらにその2つのアトリエを開放すると、それぞれのカップルだけが使えて他方のカップルの視線は気にならない中庭をひとつずつ備える設計にした。その中庭が、屋外のリビング・ダイニングスペースとしての役割を果たした。
屋内のリビングルームという概念も放棄した。シンドラーは、それぞれのカップルに専有のアトリエを2部屋ずつ、さらにその2つのアトリエを開放すると、それぞれのカップルだけが使えて他方のカップルの視線は気にならない中庭をひとつずつ備える設計にした。その中庭が、屋外のリビング・ダイニングスペースとしての役割を果たした。
写真はシンドラーのアトリエ。部屋を暖める暖炉があり、スライド式のキャンバス製パネルを開けると中庭が広がる。パネルは高さ約6フィート2インチ(188cm
)しかなく、その上には部屋の奥まで光が差し込むように帯状の高窓が取り付けられている。
)しかなく、その上には部屋の奥まで光が差し込むように帯状の高窓が取り付けられている。
中庭はプライバシーを保てるよう慎重に設計された。写真では、背の高い生垣がチェイス家の中庭の後部、背の高い草の部分が中庭の右側にあたる。左側にある暖炉によって戸外室(屋根のない屋外の部屋としての庭の位置付け)が完成している。
屋上の「スリーピング・バスケット」
寝室というアイデアも同じく放棄し、屋上にアウトドア「スリーピング・バスケット」を設置した。寒い冬の夜にはキャンバス製のフラップを下ろして使用する。
寝室というアイデアも同じく放棄し、屋上にアウトドア「スリーピング・バスケット」を設置した。寒い冬の夜にはキャンバス製のフラップを下ろして使用する。
シンドラーのスリーピング・バスケットからは、背の高い竹とイボタの生垣に囲まれた中庭を眺めることができる。野菜や切花用の植物が植えてある菜園、道具を保管する倉庫、ごみ集積エリアなどの実用的なスペースは、目立たないところに注意深く配置されている。
共同キッチンを黄色、シンドラー家の住居を赤、チェイス家の住居を青、そして貸しアパートを紫に色分けした平面図
景観の一部になる家
ル・コルビュジエの《サヴォア邸》、ヴァルター・グロピウスの《グロピウス邸》、ミース・ファン・デル・ローエの《ファンズワース邸》、フィリップ・ジョンソンの《グラスハウス》など、私たちに馴染みのある象徴的なモダニズム住宅のほとんどは、独立したものとしてデザインされた。フランク・ロイド・ライトの《落水荘》でさえ、敷地との一体感は美しいものの、その周辺環境からは視覚的に切り離されている。
対してシンドラー邸では、屋内と屋外の空間がシームレスにつなぎ合わされている。実際のところ、住宅が敷地にあまりにも見事に溶け込んでいるため、何度か訪れた後も、間取り図を描いた後ですら、角を曲がると自分が今4つあるアトリエのどこにいるのかわからなくなる。
住宅は幅約30.5m、奥行約61mの区画の中心に建っている。建物はL字型のウィング3つで構成されていて、それらが中央のキッチン作業エリアを囲む風車のように配置されている。
景観の一部になる家
ル・コルビュジエの《サヴォア邸》、ヴァルター・グロピウスの《グロピウス邸》、ミース・ファン・デル・ローエの《ファンズワース邸》、フィリップ・ジョンソンの《グラスハウス》など、私たちに馴染みのある象徴的なモダニズム住宅のほとんどは、独立したものとしてデザインされた。フランク・ロイド・ライトの《落水荘》でさえ、敷地との一体感は美しいものの、その周辺環境からは視覚的に切り離されている。
対してシンドラー邸では、屋内と屋外の空間がシームレスにつなぎ合わされている。実際のところ、住宅が敷地にあまりにも見事に溶け込んでいるため、何度か訪れた後も、間取り図を描いた後ですら、角を曲がると自分が今4つあるアトリエのどこにいるのかわからなくなる。
住宅は幅約30.5m、奥行約61mの区画の中心に建っている。建物はL字型のウィング3つで構成されていて、それらが中央のキッチン作業エリアを囲む風車のように配置されている。
雨よけになるオーバーハング。シンドラーのアトリエは裏手にあたる
屋内のコンクリート床は、屋外の中庭と同じ高さになっており、屋内から屋外へのシームレスな流れを可能にしている。
屋内のコンクリート床は、屋外の中庭と同じ高さになっており、屋内から屋外へのシームレスな流れを可能にしている。
切花用の菜園は、前景のリンゴの木の裏にある。ゴミ集積スペースや倉庫など、敷地内のその他の実用的なスペースは慎重に配置され、セコイアのフェンスと生垣で囲んでいる。
ポーリン・シンドラーのアトリエの後壁
撮影:ジョシュア・ホワイト
画期的な施工方法
シンドラーは、それまで住宅の建設では見たことのないような驚くほど多くの施工方法や材料を使って実験を行なった。彼の発明の数々は、フランク・ロイド・ライトのものと考えられている多くのアイデアを先駆けて着手したものだった。
モジュール設計
シンドラーは、モダンな設計を身近なものにするため、他の建築家や施工業者が彼のアイデアを取り入れることができる実例を示そうとしていたのだ。彼は厳密に4×4フィート(約1.2×1.2メートル)モジュールを住宅の基本として、構造物のレイアウトをシンプルにし、材料の切り出しでも無駄を最小限に抑えた。
私の事務所でも、手がけた住宅のひとつで4×4フィートのレイアウトを試したことがある。その中で設計のプロセスを厳密にするよりも、モジュールを設計とアイデアの指針にするほうが施工に携わるすべての職人が理解しやすいということに気づいた。
撮影:ジョシュア・ホワイト
画期的な施工方法
シンドラーは、それまで住宅の建設では見たことのないような驚くほど多くの施工方法や材料を使って実験を行なった。彼の発明の数々は、フランク・ロイド・ライトのものと考えられている多くのアイデアを先駆けて着手したものだった。
モジュール設計
シンドラーは、モダンな設計を身近なものにするため、他の建築家や施工業者が彼のアイデアを取り入れることができる実例を示そうとしていたのだ。彼は厳密に4×4フィート(約1.2×1.2メートル)モジュールを住宅の基本として、構造物のレイアウトをシンプルにし、材料の切り出しでも無駄を最小限に抑えた。
私の事務所でも、手がけた住宅のひとつで4×4フィートのレイアウトを試したことがある。その中で設計のプロセスを厳密にするよりも、モジュールを設計とアイデアの指針にするほうが施工に携わるすべての職人が理解しやすいということに気づいた。
共同の作業場からポーリンのアトリエへと続く通路
シンドラーはさらに、建物の高さもモジュール方式にした。天井は、高さのあるところで8フィート(約240cm)、低いところで6フィート2インチ(約188cm)ある。これらの高さは在庫木材の高さに合わせたものだ。低い高さの材をアトリエへと続く通路のような移動の空間に上手に使ったことで、8フィートの天井の空間はさらに高さを感じることができる。
シンドラーはさらに、建物の高さもモジュール方式にした。天井は、高さのあるところで8フィート(約240cm)、低いところで6フィート2インチ(約188cm)ある。これらの高さは在庫木材の高さに合わせたものだ。低い高さの材をアトリエへと続く通路のような移動の空間に上手に使ったことで、8フィートの天井の空間はさらに高さを感じることができる。
シンドラーのアトリエの眺め
コンクリートの斬新な使い方
コンクリートスラブは今でこそ広く利用されているが、シンドラーが地面に直接コンクリートを流して床にした当時は非常に珍しいものだった。さらに、床に塗装を施すなどして仕上げる代わりに、生コンクリートを単純に磨いただけというのはほとんど目にしたことがなかった。
構造エンジニアのクライド・チェイスはベンチャー事業におけるシンドラーのパートナーであり、施工を請け負っていた。彼は少し前に、建築家のアーヴィング・ギルに雇われ、シンドラー邸の近くの住宅で傾斜スラブの技術を利用した仕事をしたばかりだった。チェイスとシンドラーは、最初にコンクリートスラブを流し込んで住宅の床を作って、このプロセスをさらに進化させたのだ。型枠は仕上げをした床の上に配置し、コンクリート壁パネルを床の上に直接打設した。コンクリートが硬化したら、パネルを上方へ傾けて構造の背部を作った。
コンクリートの斬新な使い方
コンクリートスラブは今でこそ広く利用されているが、シンドラーが地面に直接コンクリートを流して床にした当時は非常に珍しいものだった。さらに、床に塗装を施すなどして仕上げる代わりに、生コンクリートを単純に磨いただけというのはほとんど目にしたことがなかった。
構造エンジニアのクライド・チェイスはベンチャー事業におけるシンドラーのパートナーであり、施工を請け負っていた。彼は少し前に、建築家のアーヴィング・ギルに雇われ、シンドラー邸の近くの住宅で傾斜スラブの技術を利用した仕事をしたばかりだった。チェイスとシンドラーは、最初にコンクリートスラブを流し込んで住宅の床を作って、このプロセスをさらに進化させたのだ。型枠は仕上げをした床の上に配置し、コンクリート壁パネルを床の上に直接打設した。コンクリートが硬化したら、パネルを上方へ傾けて構造の背部を作った。
1980年代のポーリン・シンドラーのアトリエ。中庭へとつながるキャンバス地のスライド式パネル、むき出しのコンクリート床と壁、セコイアの梁、暖炉を囲う銅製の覆いなどの素材が強調されている
材料の真実
シンドラーは、フランク・ロイド・ライトですら考えもしなかったレベルで、材料の性質を活かすアイデアを採用した。すべての材料を本来の形状で使用し、それを覆う膜や装飾的な仕上げはされていない。唯一の例外として、コンクリート床を研磨し、現場で流し込んだコンクリートのカウンター、シンク、浴槽の仕上げにマグネサイトを使用した。
構造梁とルーフデッキには、ドアや窓と同じく、屋外環境でも腐食に強いことで知られる天然のセコイアの木を使った。
スライド式ドアに使われた材料にも仕上げは施さなかった。夏の間に使用するキャンバス製パネルは、冬になると、断熱性が高く、薄くて丈夫な圧縮セルロース製の板に交換した。これらの材料は、塗料、しっくい、スタッコといった仕上げを一切施していない。
材料の真実
シンドラーは、フランク・ロイド・ライトですら考えもしなかったレベルで、材料の性質を活かすアイデアを採用した。すべての材料を本来の形状で使用し、それを覆う膜や装飾的な仕上げはされていない。唯一の例外として、コンクリート床を研磨し、現場で流し込んだコンクリートのカウンター、シンク、浴槽の仕上げにマグネサイトを使用した。
構造梁とルーフデッキには、ドアや窓と同じく、屋外環境でも腐食に強いことで知られる天然のセコイアの木を使った。
スライド式ドアに使われた材料にも仕上げは施さなかった。夏の間に使用するキャンバス製パネルは、冬になると、断熱性が高く、薄くて丈夫な圧縮セルロース製の板に交換した。これらの材料は、塗料、しっくい、スタッコといった仕上げを一切施していない。
シンドラーの浴室
使用する材料を最小限にするため、壁は上に向かって細くなるように設計された。コンクリートパネル同士の隙間は大きさ3インチ(約7.5cm)のガラスピースで埋められ、4フィートのモジュールに明確な表情をつけた。浴室などプライバシーが必要な場所には、代わりに半透明のプライバシーガラスを使った。写真の浴室では、半透明のガラスストリップを用いてプライバシーを確保している。(今も壁からシンクの右側にかけて、型枠に使用された黄麻布の模様が見える)。
使用する材料を最小限にするため、壁は上に向かって細くなるように設計された。コンクリートパネル同士の隙間は大きさ3インチ(約7.5cm)のガラスピースで埋められ、4フィートのモジュールに明確な表情をつけた。浴室などプライバシーが必要な場所には、代わりに半透明のプライバシーガラスを使った。写真の浴室では、半透明のガラスストリップを用いてプライバシーを確保している。(今も壁からシンクの右側にかけて、型枠に使用された黄麻布の模様が見える)。
建築家リチャード・ノイトラとその息子ディオン、その妻ディオネ・ニーデルマン・ノイトラとともにポーズをとるシンドラー(右)撮影日不明
キングス・ロードの混乱
チェイス家は、1924年にフロリダに引っ越すまでのほんのわずかな期間、キングス・ロードの家で暮らした。1925年には、リチャード・ノイトラとその妻ディオネがチェイス家の住んでいたウイングに入居した。ウィーンから移住してきたモダニズム建築家でもあるノイトラはシンドラーとパートナー関係を結ぶが、モダン住宅建築のアイコンである二人が共同で行なった設計の件をめぐって口論となり、関係は破綻した。ノイトラ家は1930年にこの家を去り、独立した。
その一方で、シンドラーの結婚生活も終わり、1927年にポーリンがこの家を去ったが、1930年代後半にはキングス・ロードの家に戻り、元々チェイスのアトリエだったスペースに暮らし始めた。そのときもシンドラーは変わらず自身のアトリエで生活していた。シンドラーが亡くなる1953年まで、2人は少し変わった関係のもとで別々の暮らしを続けた。
シンドラー邸見学について:住居は水曜日から日曜日の午前11時から午後6時まで開放されています。8名未満の団体は予約不要です。詳細はこちら
絶対に知っておきたいモダニズムの傑作住宅10選
名作住宅:ルドルフ・シンドラーの住宅建築
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