暮らす人をインスパイアする都会のサンクチュアリ《新・前川國男自邸》
《旧・前川國男自邸》から30年後、建築家・前川國男が自作を再解釈し、日本の伝統建築の美を大切にしながら、当時の最新の設備を取り入れてつくりあげた、コンクリート住宅建築の傑作をご紹介します。
Karen Severns
2017年12月4日
Houzz Contributor. Writer, educator, filmmaker, archi-fanatic
《旧・自邸》でくつろぐ前川國男・美代夫妻。 1942年。写真提供・前川建築設計事務所
1942年、建築家の前川國男(1905-1986)は東京都目黒区上大崎の広い敷地に最初の自邸を建てた。戦時中の物資不足により住宅の規模が制限されていたため、建てたのは小さな木造の赤茶色の家で、明かりとりの障子をはめた窓越しに大きなリビングが前庭にも裏庭にも通じており、屋根は急勾配の切妻屋根だった。外観は非常に伝統主義的でありながら、内部では洋間とモダンなアメニティを採用していた。
30年後、70歳を目前にした前川は、前回と同じ495.3平方メートルの敷地に、2つめの自邸を建てた。ただし、今度はもっと大きな規模の家となった。最初の自邸は解体し、いずれまた組み立てられるよう保存した(後に江戸東京たてもの園に再建されている)おかげで、現在、前川の自邸は2邸が現存している。注目すべきことに、20世紀の日本建築の巨匠である前川が手がけた住宅のうち、東京に現存するのは、この2邸のみである。(もう1邸あることにはあるが、そちらは大部分が改築されてしまっている。)
1942年、建築家の前川國男(1905-1986)は東京都目黒区上大崎の広い敷地に最初の自邸を建てた。戦時中の物資不足により住宅の規模が制限されていたため、建てたのは小さな木造の赤茶色の家で、明かりとりの障子をはめた窓越しに大きなリビングが前庭にも裏庭にも通じており、屋根は急勾配の切妻屋根だった。外観は非常に伝統主義的でありながら、内部では洋間とモダンなアメニティを採用していた。
30年後、70歳を目前にした前川は、前回と同じ495.3平方メートルの敷地に、2つめの自邸を建てた。ただし、今度はもっと大きな規模の家となった。最初の自邸は解体し、いずれまた組み立てられるよう保存した(後に江戸東京たてもの園に再建されている)おかげで、現在、前川の自邸は2邸が現存している。注目すべきことに、20世紀の日本建築の巨匠である前川が手がけた住宅のうち、東京に現存するのは、この2邸のみである。(もう1邸あることにはあるが、そちらは大部分が改築されてしまっている。)
前川事務所を訪れたル・コルビュジエとともに。1955年。写真提供・前川建築設計事務所
よく知られているように、前川は1928年にパリのル・コルビュジエの事務所で建築家としてのキャリアを歩み始め、1930年に東京に戻った。続く5年間はアントニン・レーモンド(1888-1976)の事務所に勤務した。レーモンドはチェコ生まれのアメリカ人建築家で、1919年にフランク・ロイド・ライトとともに来日した。ライトが1920年に帰国するとすぐに自分の事務所を設立し、コルビュジエやワルター・グロピウスなど、ヨーロッパのモダニズムの最先端を切り開いていた建築家たちの薫陶を受けて帰国した、若い日本人建築家たちを雇い始めた。鉄筋コンクリート建築の草分けであるオーギュスト・ペレなど、さまざまな建築家たちから間接的に影響を受けながら、レーモンドは日本の伝統の最良の部分とヨーロッパの建築の最新トレンドを融合させて、日本固有の新しいモダニズムをつくり始めた。
よく知られているように、前川は1928年にパリのル・コルビュジエの事務所で建築家としてのキャリアを歩み始め、1930年に東京に戻った。続く5年間はアントニン・レーモンド(1888-1976)の事務所に勤務した。レーモンドはチェコ生まれのアメリカ人建築家で、1919年にフランク・ロイド・ライトとともに来日した。ライトが1920年に帰国するとすぐに自分の事務所を設立し、コルビュジエやワルター・グロピウスなど、ヨーロッパのモダニズムの最先端を切り開いていた建築家たちの薫陶を受けて帰国した、若い日本人建築家たちを雇い始めた。鉄筋コンクリート建築の草分けであるオーギュスト・ペレなど、さまざまな建築家たちから間接的に影響を受けながら、レーモンドは日本の伝統の最良の部分とヨーロッパの建築の最新トレンドを融合させて、日本固有の新しいモダニズムをつくり始めた。
前川(前列中央)とレーモンド(後列中央)。レーモンド事務所の同僚である吉村順三(前列右端)、家具デザイナーのジョージ・ナカシマ(後列左から3人目)の姿もある。1935年撮影。写真提供:北澤建築設計事務所
前川は、1935年にレーモンド事務所から独立して、前川國男建築設計事務所を設立。その後45年以上にわたり、国内外で、住宅、商業建築、政府庁舎の設計を手掛けた。しかし、国際的に最も高い評価を受けたのは、上野公園に立つ見事な《東京文化会館》やエレガントな《国際文化会館》(坂倉準三と吉村順三との共同設計)、赤いタイルが魅力的な《東京都美術館》といった、豊かなオープンスペースのある公共建築への取り組みだった。
日本の戦前・戦後の建築を通して、前川は常にモダニズムのデザインとイデオロギーにおける技術の重要性を強調していたが、同時にモダニズムがかかえる両義性については伝統によって解決していた。作品の多くをコンクリートでつくっているが、レイモンドに呼応するように、どの作品も日本のすぐれた職人技術への誇りを感じさせる。とりわけ住宅デザインにおいては、晩年の作品にいたるまで、木と紙を芸術的に使いこなし、近代以前の日本の伝統を取り入れながら、ぬくもりのある親密な空間づくりを重視した。
1942年に建てた《旧・前川國男自邸》は、こうしたさまざまな特徴を兼ね備えた好例だった。しかし、自邸再建の準備が整ったころには、彼自身が家に求めるものが変化していた。
前川は、1935年にレーモンド事務所から独立して、前川國男建築設計事務所を設立。その後45年以上にわたり、国内外で、住宅、商業建築、政府庁舎の設計を手掛けた。しかし、国際的に最も高い評価を受けたのは、上野公園に立つ見事な《東京文化会館》やエレガントな《国際文化会館》(坂倉準三と吉村順三との共同設計)、赤いタイルが魅力的な《東京都美術館》といった、豊かなオープンスペースのある公共建築への取り組みだった。
日本の戦前・戦後の建築を通して、前川は常にモダニズムのデザインとイデオロギーにおける技術の重要性を強調していたが、同時にモダニズムがかかえる両義性については伝統によって解決していた。作品の多くをコンクリートでつくっているが、レイモンドに呼応するように、どの作品も日本のすぐれた職人技術への誇りを感じさせる。とりわけ住宅デザインにおいては、晩年の作品にいたるまで、木と紙を芸術的に使いこなし、近代以前の日本の伝統を取り入れながら、ぬくもりのある親密な空間づくりを重視した。
1942年に建てた《旧・前川國男自邸》は、こうしたさまざまな特徴を兼ね備えた好例だった。しかし、自邸再建の準備が整ったころには、彼自身が家に求めるものが変化していた。
前川國男が《新・前川國男自邸》のために描いた60枚のスケッチのうちの1枚。画像提供・前川建築設計事務所
少なくとも3年にわたり、前川は新しい自邸のスケッチを密かに描き続けてきた。事務所の製図台にあった設計図の端に描いたものもある。70歳近くになり、健康への不安ももちろんあっただろうし、11歳年下で自分の後に残るであろう妻・美代のため、モダンで暮らしやすい家を建てたいと考えてもいたのだろう。進歩したさまざまな技術を活用し、万全な耐震性を備え、1942年には夢にも思わなかった便利な機能やアメニティを盛り込みたいと考えたのだった。
最終的には、150を超えるコンセプトスケッチを描き、すべてのディテールについて考え抜いた。満足のいくスケッチが描けたところで、長澤甫明とともに基本設計の図面をつくり、最初の自邸を解体・撤去して、第2の自邸の建設を始めた。《新・前川國男自邸》という名で親しまれることになるこの家は、1974年に竣工するとすぐに、住宅デザインの傑作として高い評価を受けた。
少なくとも3年にわたり、前川は新しい自邸のスケッチを密かに描き続けてきた。事務所の製図台にあった設計図の端に描いたものもある。70歳近くになり、健康への不安ももちろんあっただろうし、11歳年下で自分の後に残るであろう妻・美代のため、モダンで暮らしやすい家を建てたいと考えてもいたのだろう。進歩したさまざまな技術を活用し、万全な耐震性を備え、1942年には夢にも思わなかった便利な機能やアメニティを盛り込みたいと考えたのだった。
最終的には、150を超えるコンセプトスケッチを描き、すべてのディテールについて考え抜いた。満足のいくスケッチが描けたところで、長澤甫明とともに基本設計の図面をつくり、最初の自邸を解体・撤去して、第2の自邸の建設を始めた。《新・前川國男自邸》という名で親しまれることになるこの家は、1974年に竣工するとすぐに、住宅デザインの傑作として高い評価を受けた。
木造ではなく鉄筋コンクリート造の家だが、意外なほどにぬくもりを感じるのは、弁柄(べんがら。酸化鉄による赤色顔料)をコンクリートに混ぜているからだ。全体の印象を和らげるのはもちろん、妻である美代のための家であるという事実や、ひだまりを思い起こさせる効果を狙ったのだろう。あるいは、赤茶色の木造だった最初の自邸を継承する思いもあったかもしれない。
3階建て、延床面積456.8㎡(最初の自邸の3倍の広さ)の建築は、屋内ガレージやセントラルヒーティング、全館空調(日本では今の家でも珍しい)、地下の食料庫(パントリー)からキッチンへのダムウェイター、3ヵ所に設置されたモダンな暖炉、普通より多く設けられたバストイレ設備(シャワー4ヵ所も!)まで、設計は隅々に至るまで配慮が行き届いている。前川夫妻が晩年を非常に快適な環境で過ごしたことが想像できる。
3階建て、延床面積456.8㎡(最初の自邸の3倍の広さ)の建築は、屋内ガレージやセントラルヒーティング、全館空調(日本では今の家でも珍しい)、地下の食料庫(パントリー)からキッチンへのダムウェイター、3ヵ所に設置されたモダンな暖炉、普通より多く設けられたバストイレ設備(シャワー4ヵ所も!)まで、設計は隅々に至るまで配慮が行き届いている。前川夫妻が晩年を非常に快適な環境で過ごしたことが想像できる。
《新・前川國男自邸》には印象的な特徴がたくさんあるが、その1つが、狭い緩やかなスロープである通りから見たときの存在感のさりげなさだ。2階の廊下には大きな窓があるものの、カーブを描くフェンスがプライバシーをしっかりと守っている。だが、少し離れたところから仰ぎ見ると、デザインの端々から優れた建築作品であることがわかる。しかし、目に見える部分はすばらしさのごく一部でしかない。
屋上のデザインや、屋内の美しい曲面壁に、コルビュジエの《サヴォア邸》(前川がコルビュジエ事務所に勤務していた1928〜21年にピエール・ジャンヌレが設計)や《スタイン邸、1927年》の面影を見る建築評論家もいる。また、正面のカーブを描く外壁は、レーモンドがペレの自在なコンクリートの使い方に触発されて設計した《霊南坂の家》(1927年)を思わせる。
屋上のデザインや、屋内の美しい曲面壁に、コルビュジエの《サヴォア邸》(前川がコルビュジエ事務所に勤務していた1928〜21年にピエール・ジャンヌレが設計)や《スタイン邸、1927年》の面影を見る建築評論家もいる。また、正面のカーブを描く外壁は、レーモンドがペレの自在なコンクリートの使い方に触発されて設計した《霊南坂の家》(1927年)を思わせる。
1981年に前川國男が没すると、翌年に妻の美代も後を追うように亡くなり、弟の前川春雄がこの家を相続して、外国人向け住宅として賃貸に出す。日本銀行総裁を務めた春雄は、これほどの規模と利便性を備えた住宅は、(そして賃料の面でも)外国人家族のほうが借り手になりやすいと考えたのだ。春雄の死後は、ユニークで重要な建築遺産を住みつぎ、維持管理するための仕組みづくりを手がける〈住宅遺産トラスト〉が、この家を再開発から守っていた。
2010年、素晴らしい住宅を愛し、日本にも長年親しんできたあるオーストラリア人弁護士が、この家の住まい手となった。そして、現在に至るまで、おそらく建築家本人に次いでもっともこの家に愛情を注ぎながら暮らしている。
「ちょうど新しい住まいを探していたんです。家族や犬や、うちにやってくる両親が心地よく暮らせる家を探していたのはもちろんですが、建築的に興味深いという点が決め手になりました。見た目に何もかもが刺激的である必要はなくて、ずっとうちにいたくなる家がほしかったのです。そういう家でないと、東京のような街ではとくに、すぐ外出したくなってしまいますから」と住まい手のエド・コール氏は話す。
2010年、素晴らしい住宅を愛し、日本にも長年親しんできたあるオーストラリア人弁護士が、この家の住まい手となった。そして、現在に至るまで、おそらく建築家本人に次いでもっともこの家に愛情を注ぎながら暮らしている。
「ちょうど新しい住まいを探していたんです。家族や犬や、うちにやってくる両親が心地よく暮らせる家を探していたのはもちろんですが、建築的に興味深いという点が決め手になりました。見た目に何もかもが刺激的である必要はなくて、ずっとうちにいたくなる家がほしかったのです。そういう家でないと、東京のような街ではとくに、すぐ外出したくなってしまいますから」と住まい手のエド・コール氏は話す。
理由は違えど、前川もきっと、コール氏と同じように感じていたのではないだろうか。コール氏はこう説明する。「この家には、自己顕示的な部分を感じるんです。つまり、『(年齢的に)それほど動き回れないし、できることも限られているのだから、相手のほうが私を訊ねてくれる場所がほしい』という感じです。自己顕示的といっても、『私のほうを見なさい』という感じではなくて、人が訪ねてきやすい場所をつくっている、ということ。日本では、自宅を訪ねてきた人にくつろいでもらうのはなかなか難しい。とりわけ、プライベートな空間ほどそうです。日本人の社交の仕方として、自宅を訪ね合うことはあまりありません。でも、私にとってこの家は『うちにきて、一緒に過ごそうよ』といえる場所になっています」。
しかし、この家が非常にコルビュジエ的だという意見については、反論があると言う。「この家はもっともっと日本的です。コルビュジエ的な建築要素もあるでしょうが、総体としてみたとき、大きく異なっています」とコール氏は話す。また、1階のパブリックな空間や、前庭・裏庭とのつながりなど、1942年の自邸に通じる部分を重視する。「最初の自邸を踏襲しています。外観は似ていませんが、3つの大きな部屋がある間取りや窓に障子を使っているところなどがそうです」とコール氏は話す。
また、前川が手がけた他の作品のデザインを思わせる部分もある。「注意深く見ると、建物のいたるところのディテールで気づくはずです。玄関のタイルは《東京海上ビルディング》(現・日動東京海上ビルディング本館)に使われたものと同じですし、階段と手すりは東京文化会館に似ています。屋根の上のカーブは、新宿の《紀伊国屋ビル》のカーブを反転したかのように見えます」とコール氏は言う。
しかし、この家が非常にコルビュジエ的だという意見については、反論があると言う。「この家はもっともっと日本的です。コルビュジエ的な建築要素もあるでしょうが、総体としてみたとき、大きく異なっています」とコール氏は話す。また、1階のパブリックな空間や、前庭・裏庭とのつながりなど、1942年の自邸に通じる部分を重視する。「最初の自邸を踏襲しています。外観は似ていませんが、3つの大きな部屋がある間取りや窓に障子を使っているところなどがそうです」とコール氏は話す。
また、前川が手がけた他の作品のデザインを思わせる部分もある。「注意深く見ると、建物のいたるところのディテールで気づくはずです。玄関のタイルは《東京海上ビルディング》(現・日動東京海上ビルディング本館)に使われたものと同じですし、階段と手すりは東京文化会館に似ています。屋根の上のカーブは、新宿の《紀伊国屋ビル》のカーブを反転したかのように見えます」とコール氏は言う。
北東に位置する門から入り、階段を数段上って玄関にアクセスする。タイル貼りの玄関の先には曲面壁に囲まれた短い廊下があり、数ヵ所の扉に通じている。この家の中では、曲面が垂直・水平の両方向に何度も繰り返し使われている。
玄関の奥に見どころがある。玄関を入って左手にある壁に見事にフィットした金属製のボルトで回転する1.5 m幅の木製ドアは、最初の自邸の玄関のドアを思わせる。ドアをあけて進むと、廊下があり、キッチンや1階と地下階につながるゆったりとした階段がある。
コール氏とパートナーが一目惚れしてしまったのが、こちらの1階の空間だ。東側にダイニングルーム、右側に暖炉のある書斎兼パーラー、中央に南に面したリビングルームがあり、ここにも暖炉がある。天井高は3メートルあり、3つの空間は大きなふすまのような引き戸で仕切る。引き戸を開放すれば、間口14.4メートルの空間になる。南側は、特注の障子が入った引き戸がある掃き出し窓があり、すばらしい庭の眺めを楽しめる。コール氏は、この家なら、天気の良い日には、前庭と裏庭で犬が喜んで駆け回るだろう、と思ったそうだ。
2010年に引っ越したが、すぐに我が家だという感覚を持てたという。手持ちの家具はまるでこの家のために誂えたかのようで、新調したのは、北欧製のダイニングテーブル1つだけだった。その後、犬がもう1匹増え、2匹とも、年中、リビングのひだまりで、ラグの上に寝そべりくつろいでいることが多いそうだ。
2010年に引っ越したが、すぐに我が家だという感覚を持てたという。手持ちの家具はまるでこの家のために誂えたかのようで、新調したのは、北欧製のダイニングテーブル1つだけだった。その後、犬がもう1匹増え、2匹とも、年中、リビングのひだまりで、ラグの上に寝そべりくつろいでいることが多いそうだ。
家の東側にあるダイニングに隣接してキッチンがある。これも標準的な日本のキッチンに比べて非常に大きく、脇の庭を眺められる窓もついている。「母はいつも、こんなキッチンが持てて素敵ね、と言います。実家のキッチンはここより少し小さいですからね。私の両親はこの家が大好きで、しょっちゅううちに滞在しています」とコール氏は笑う。キッチンが広いのは、ケータリング業者がおもてなしの準備をしやすいように設計したのではないか、とコール氏は考えている。「もしも私が建築家で奥さんが料理をする人なら、奥さんに気持ちよく過ごしてもらうためにこんなキッチンをつくるのではないでしょうか。家の他の部分は自分のために設計するでしょうし、素敵なキッチンをつくるのは簡単にできる譲歩ですよね」とコール氏。
マスターバスルームの雪見窓からは2階にある小さな庭を眺められる。この庭には屋上テラスにつながる階段があるが、コール氏はまったく使っていない。「なぜ屋上を使わないかというと、この家が竣工した当時は眺めもよかったでしょうが、今では隣にマンションがあって窓もありますし、パーティーを開く気にはなれませんね」とコール氏。
写真は1階にあるリビングスペースだ。写真の奥にダイニングが見え、手前には書斎兼パーラーがある。コール氏、パートナー、犬たちとゲストはたいていここで時間を過ごす。ダイニングや書斎兼パーラーの間は、普段は開け放して使っている。
コール氏は、《新・前川國男自邸》の魅力にすっかり夢中になっている、という。「この家にいる以上に素晴らしいことなんて絶対にない、という結論に至りました。いちばんの理由は、この家にいると快適で、元気になるし、安心できるから。設計の妙があるのでしょう、この家にいると、本当に守られていると感じますし、心穏やかでありながら物事への興味も湧いてくる。禅の境地のような穏やかさではありません。ここは東京の真ん中ですし、賑やかな界隈です。でも、守られながら、同時に、刺激を感じることができるんです。そんな場所は、めったにありません。」
前川國男の自邸にこの地を訪れる人もいるが、コール氏は気にしていない。「この家に興味をもつ面白い人たちと出会い、興味深い話ができますから。だからこそ私は、前川さんはきっと、人を惹きつけるものをつくりたかったんだと思うのです。前川さんのこの家の楽しみ方と、私の楽しみ方は、似ているところがあると思います。」
もちろん、不満がないわけではない。家の周りには電柱が立ち並び、道路は狭いし、目と鼻の先にオフィスやマンションのタワーが立ち始めたし、目黒界隈はエキサイティングな街ではない。だが、飽くなき開発を続ける東京のデベロッパーたちも、この家には手をつけないだろうとコール氏は考えている。「《新・前川國男自邸》は永遠にこの地にあり続けるでしょう。なぜなら、こうしたデザインには真の価値があると人々も気づいているからです。日本で最も偉大な建築家の1人の自邸だったからではなく、信じられないくらいよい設計、デザインであるからこそ、他には代えられない価値があるのです」とコール氏は話してくれた。
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