フランク・ロイド・ライトの建築と思想が息づく「タリアセン・ウェスト」
ライトが人生の最後に冬の家兼スタジオ兼建築学校として設立した、タリアセン・ウェスト。自然と共生する有機的建築をめざしたライトの理想が結晶化した施設です。
今年はフランク・ロイド・ライト生誕150周年にあたる。また、建築家として既成概念に挑戦し続けたライトが、マクダウェル山脈の麓(現在のアリゾナ州スコッツデール)に広がる640エーカーの荒野に初めて足を踏み入れてから、ちょうど80年目でもある。ライトは数か月後にはその土地を購入し、建築を学ぶ弟子たち――ここではアプレンティスと呼ばれている――の一団が、ライトの冬の家兼建築スタジオ兼学校となるタリアセン・ウェストの建設作業に取り掛かった。
今ではタリアセン・ウェストは国定歴史建造物に指定されており、ガイド付きツアーやプログラムを通じて一般にも公開されている。現在も建築家や学生、改築業などに携わる人たちの学びの場になっているほか、ライトやアプレンティスたちが設計・建設した建物のメンテナンスや修理をおこなう人たちのラボラトリーとしても機能している。ライトの誕生日である6月8日には、150周年にちなんでツアー料金が割引の1.5ドルとなり、各所でバースデーケーキもふるまわれた。
今ではタリアセン・ウェストは国定歴史建造物に指定されており、ガイド付きツアーやプログラムを通じて一般にも公開されている。現在も建築家や学生、改築業などに携わる人たちの学びの場になっているほか、ライトやアプレンティスたちが設計・建設した建物のメンテナンスや修理をおこなう人たちのラボラトリーとしても機能している。ライトの誕生日である6月8日には、150周年にちなんでツアー料金が割引の1.5ドルとなり、各所でバースデーケーキもふるまわれた。
黄昏時のタリアセン・ウェスト。メインの建物には、アパートメントとゲスト用の部屋がある2階部分のほか、砂漠の谷を下に望む広いデッキもある。
タリアセン・ウェストを建てたのは、ライトとともに建築と建設を学ぶため授業料を払って滞在していた男女の若いアプレンティスたちだ。大部分は手作業で、敷地内にある石を集めて合板の型に入れコンクリートで固めた「砂漠の石材」の壁や、レッドウッド材の梁といった素材で作られている。オリジナルでは屋根材はキャンバス地で、キャンバスを透過した自然な光が室内を照らしていた。
これらの素材は、安価で、建物を外の荒野とつなげる役目を果たしていた。ライトは、傾斜した構造を周囲の山々のフォルムを模倣するものとしてデザインしており、ディテールにはサボテンやネイティブアメリカンのモチーフを抽象化して取り入れていた。
タリアセン・ウェストの保存責任者フレドリック・プロジッロ・ジュニア氏は、より耐久性の高い現代の素材を使ってオリジナルの屋根に近いものを再現する試みを進めていると言う。
「歴史的価値のあるこのような建物のメンテナンスや保存はたいへんな作業なんです」とプロジッロさんは語る。「すべて、建築や建設を学んでいた若者たちによってつくられた、ここだけのオリジナル設計ですから。でも私たちは、タリアセン・ウェストの中核は砂漠のキャンプである、というコンセプトに忠実であるよう心がけています」
タリアセン・ウェストを建てたのは、ライトとともに建築と建設を学ぶため授業料を払って滞在していた男女の若いアプレンティスたちだ。大部分は手作業で、敷地内にある石を集めて合板の型に入れコンクリートで固めた「砂漠の石材」の壁や、レッドウッド材の梁といった素材で作られている。オリジナルでは屋根材はキャンバス地で、キャンバスを透過した自然な光が室内を照らしていた。
これらの素材は、安価で、建物を外の荒野とつなげる役目を果たしていた。ライトは、傾斜した構造を周囲の山々のフォルムを模倣するものとしてデザインしており、ディテールにはサボテンやネイティブアメリカンのモチーフを抽象化して取り入れていた。
タリアセン・ウェストの保存責任者フレドリック・プロジッロ・ジュニア氏は、より耐久性の高い現代の素材を使ってオリジナルの屋根に近いものを再現する試みを進めていると言う。
「歴史的価値のあるこのような建物のメンテナンスや保存はたいへんな作業なんです」とプロジッロさんは語る。「すべて、建築や建設を学んでいた若者たちによってつくられた、ここだけのオリジナル設計ですから。でも私たちは、タリアセン・ウェストの中核は砂漠のキャンプである、というコンセプトに忠実であるよう心がけています」
土地に織り込まれるようにたたずむタリアセン・ウェスト。クレオソート・ブッシュ、ジャンピング・チョーヤ、アイアンウッドやパロ・ヴェルデの木など、周囲には砂漠の植物が豊かだ。
「タリアセン」はウェールズ語で「輝ける額」を意味する。ライトは、額に汗する労働の大切さと、丘の頂上ではなく斜面の棚のような立地を選んだ配置テクニックの両方を示す意味で、この言葉を選んだ。
「タリアセン」はウェールズ語で「輝ける額」を意味する。ライトは、額に汗する労働の大切さと、丘の頂上ではなく斜面の棚のような立地を選んだ配置テクニックの両方を示す意味で、この言葉を選んだ。
Photo by Foskett Creative
タリアセン・ウェストは、当時のフェニックスの町から40キロ以上離れており、町とのあいだを遮るものはほとんど何もなかった。
ライト夫妻やアプレンティスたちが目にする灯りといえば、敷地内を通る羊飼いの焚き火だけ、ということもしばしばだった。羊飼いは羊の群れを連れて、ふもとの砂漠と高地の森の放牧地とのあいだを季節によって移動していくのだ。
数十年のあいだに一部の区画が売られ、現在のタリアセンの敷地は491エーカーとなった。その大部分は砂漠の原野だ。
タリアセン・ウェストは、当時のフェニックスの町から40キロ以上離れており、町とのあいだを遮るものはほとんど何もなかった。
ライト夫妻やアプレンティスたちが目にする灯りといえば、敷地内を通る羊飼いの焚き火だけ、ということもしばしばだった。羊飼いは羊の群れを連れて、ふもとの砂漠と高地の森の放牧地とのあいだを季節によって移動していくのだ。
数十年のあいだに一部の区画が売られ、現在のタリアセンの敷地は491エーカーとなった。その大部分は砂漠の原野だ。
ライト夫妻のひろびろとしたプライベートリビングルーム。土曜日には夫妻はここでフォーマルな夜会を開くことを好み、この集まりは若いアプレンティスたちがクライアントや著名なゲストと触れ合いながら社交のたしなみを身に付けられる機会でもあった。
部屋を暖める暖炉があり、造り付けのベンチなどの家具はライトのデザインだ。
ライト夫妻とアプレンティスたちがタリアセン・ウェストで暮らしたのは毎年10月から5月にかけてのみ。それ以外の季節はウィスコンシンに移動した。リビングの床に組み込まれた通風口などの空調設備は、のちに追加されたもの。
部屋を暖める暖炉があり、造り付けのベンチなどの家具はライトのデザインだ。
ライト夫妻とアプレンティスたちがタリアセン・ウェストで暮らしたのは毎年10月から5月にかけてのみ。それ以外の季節はウィスコンシンに移動した。リビングの床に組み込まれた通風口などの空調設備は、のちに追加されたもの。
リビングルームのガラスは、解体されたフェニックス繁華街のデパートで使われていたものを再利用している。右側の低い壁にあるコラージュは、作家・下院議員・大使として活躍したクレア・ブース・ルースの作品。『タイム』誌を創刊した出版人の夫、ヘンリー・ルースとともに、タリアセン・ウェストをよく訪れていた。
半透明の天井には、現在はポリカーボネート素材が使われている。オリジナルはコストのかからないキャンバス地だったが、砂漠の日射しに1、2年さらされるとぼろぼろに劣化してしまっていた。
半透明の天井には、現在はポリカーボネート素材が使われている。オリジナルはコストのかからないキャンバス地だったが、砂漠の日射しに1、2年さらされるとぼろぼろに劣化してしまっていた。
1950年に完成したキャバレー劇場は、1959年に亡くなったライトが生前に設計したタリアセン・ウェストの建物のなかでは最後期のもののひとつだ。
床が傾斜した劇場は部分的に地下になっており、角度をつけた座席配置で小さなステージがよく見通せる設計になっている。
この劇場では、フォーマルなディナーがよく催されていた。いちばん上の大きなテーブルがライト夫妻の席で、ゲストやアプレンティスたちはその下に続く小さな折り畳みテーブルの席についた。音響が非常によく、どこの席の会話でもライト夫妻の耳に届いたという。
ディナー後のエンターテイメントとして、音楽演奏のほか、映画を上映することも多かった。右側の開口部は、折り畳み式のシャッターを下ろせば、日中の光を遮ったり、外の廊下から劇場内に入ってくる人の姿を隠すことができる。
この劇場はいまも、特別なディナーや小規模なパフォーマンスの会場として使われており、ツアーでも見学できる。
床が傾斜した劇場は部分的に地下になっており、角度をつけた座席配置で小さなステージがよく見通せる設計になっている。
この劇場では、フォーマルなディナーがよく催されていた。いちばん上の大きなテーブルがライト夫妻の席で、ゲストやアプレンティスたちはその下に続く小さな折り畳みテーブルの席についた。音響が非常によく、どこの席の会話でもライト夫妻の耳に届いたという。
ディナー後のエンターテイメントとして、音楽演奏のほか、映画を上映することも多かった。右側の開口部は、折り畳み式のシャッターを下ろせば、日中の光を遮ったり、外の廊下から劇場内に入ってくる人の姿を隠すことができる。
この劇場はいまも、特別なディナーや小規模なパフォーマンスの会場として使われており、ツアーでも見学できる。
夜になると、設計スタジオがまるでランタンのように、砂利敷きのパティオとシトラスの林を照らしてくれる。
スタジオのドアは、ライトのトレードマークとも言えるチェロキー・レッドに塗られている。
スタジオのドアは、ライトのトレードマークとも言えるチェロキー・レッドに塗られている。
Photo by Neeta Patel
こちらは設計スタジオの最近のようす。スタジオは、タリアセン・ウェストで最初期につくられた建物のひとつだ。
ライトはスタジオのいちばん奥に座り、音楽からインスピレーションが必要なときのためピアノが近くに置かれていた。ほかの製図テーブルでは、「フェローシップ」とも呼ばれたアプレンティスたちが作業をした。
ライトはこの砂漠のスタジオで、ソロモン・R・グッゲンハイム美術館やマリン郡庁舎といった名建築の設計にあたったのだ。
ライトがアプレンティスを受け入れ始めたのは1932年。のちに正式なプログラムとして「フランク・ロイド・ライト建築学校」と呼ばれるようになり、1980年代末には認定を受けた学位取得プログラムも提供され始めた。
さらに近年では、資金目標に達してフランク・ロイド・ライト財団から独立し、認定は維持したまま、タリアセン建築学校へと進化している。そして2017年6月、フェニックスにあるデヴィッド&グラディス・ライト邸が学校に寄贈され、地域に根差したプログラムや教育活動に活用できるようになった。
これはフランク・ロイド・ライトが息子夫妻のために1950年に設計した住宅で、この家自体の修復作業も続いているため、実践的な建築ラボラトリーとしても生かされることになるだろう。
フランク・ロイド・ライトが息子夫婦のために設計した「らせん形の家」
こちらは設計スタジオの最近のようす。スタジオは、タリアセン・ウェストで最初期につくられた建物のひとつだ。
ライトはスタジオのいちばん奥に座り、音楽からインスピレーションが必要なときのためピアノが近くに置かれていた。ほかの製図テーブルでは、「フェローシップ」とも呼ばれたアプレンティスたちが作業をした。
ライトはこの砂漠のスタジオで、ソロモン・R・グッゲンハイム美術館やマリン郡庁舎といった名建築の設計にあたったのだ。
ライトがアプレンティスを受け入れ始めたのは1932年。のちに正式なプログラムとして「フランク・ロイド・ライト建築学校」と呼ばれるようになり、1980年代末には認定を受けた学位取得プログラムも提供され始めた。
さらに近年では、資金目標に達してフランク・ロイド・ライト財団から独立し、認定は維持したまま、タリアセン建築学校へと進化している。そして2017年6月、フェニックスにあるデヴィッド&グラディス・ライト邸が学校に寄贈され、地域に根差したプログラムや教育活動に活用できるようになった。
これはフランク・ロイド・ライトが息子夫妻のために1950年に設計した住宅で、この家自体の修復作業も続いているため、実践的な建築ラボラトリーとしても生かされることになるだろう。
フランク・ロイド・ライトが息子夫婦のために設計した「らせん形の家」
タリアセン・ウェストの建設中、アプレンティスが敷地内から古代のペトログリフ(岩絵)が刻まれた岩を発見。ライトはこれらを台座に乗せて、よく目立つポイント数か所にディスプレイしている。
Photo from the Frank Lloyd Wright Foundation
ここでアプレンティスとして学んだサンフランシスコの建築家、アーロン・グリーンがオルギヴァンナ・ライトにプレゼントした金属製のドラゴン。もとは噴水として使われていたのだが、のちにガス管を取り付け、夜のイベント時には火を吹く姿が見られるようになった。
ここでアプレンティスとして学んだサンフランシスコの建築家、アーロン・グリーンがオルギヴァンナ・ライトにプレゼントした金属製のドラゴン。もとは噴水として使われていたのだが、のちにガス管を取り付け、夜のイベント時には火を吹く姿が見られるようになった。
Photo by Jason Silverman
初期のアプレンティスたちは、キャンバス製の羊飼いのテントで砂漠に寝泊まりしていた。今でも、修士プログラムの学生たちはこの伝統を続けている。
なかには、テントから一歩進んだ構造物をつくる学生もいる。最近制作されたこちらは、吊り下げられて砂漠の地面から浮かんでいる。
初期のアプレンティスたちは、キャンバス製の羊飼いのテントで砂漠に寝泊まりしていた。今でも、修士プログラムの学生たちはこの伝統を続けている。
なかには、テントから一歩進んだ構造物をつくる学生もいる。最近制作されたこちらは、吊り下げられて砂漠の地面から浮かんでいる。
Photo by Jason Silverman
さらに手の込んだシェルターをつくっている学生も多い。大半は寄付された素材や再利用素材を用いたもので、制作年不詳のこちらのシェルターではブロックと金属素材が使われている。
ライトは、良い建築家や施工者を育成するには、実際の経験が大切だと信じていた。また、キャンプ生活をすることで、その土地の天候パターンや動植物を理解することにつながると考えていた。
建築学校「タリアセン」の学生がつくった、砂漠の最小限住居
さらに手の込んだシェルターをつくっている学生も多い。大半は寄付された素材や再利用素材を用いたもので、制作年不詳のこちらのシェルターではブロックと金属素材が使われている。
ライトは、良い建築家や施工者を育成するには、実際の経験が大切だと信じていた。また、キャンプ生活をすることで、その土地の天候パターンや動植物を理解することにつながると考えていた。
建築学校「タリアセン」の学生がつくった、砂漠の最小限住居
Photo from the Frank Lloyd Wright Foundation
1980年代に建てられた売店(写真は最近のようす)が、ツアーのスタート地点だ。こちらでは、ライトがデザインしたインテリア製品や食器、ライト関係の書籍、装飾品なども売られている。
1980年代に建てられた売店(写真は最近のようす)が、ツアーのスタート地点だ。こちらでは、ライトがデザインしたインテリア製品や食器、ライト関係の書籍、装飾品なども売られている。
年間10万人以上が《タリアセン・ウェスト》を訪れ、中心となる建物やライト夫妻の住まい、学生のシェルターなどを巡る多彩なガイド付きツアーを楽しんでいる。一般の訪問者向けに、コンサート、講演、演劇などのパフォーマンスも行われている。
詳しくはタリアセン・ウェストの公式ウェブサイト(英語サイト)へ。
フランク・ロイド・ライトの自邸兼スタジオ
詳しくはタリアセン・ウェストの公式ウェブサイト(英語サイト)へ。
フランク・ロイド・ライトの自邸兼スタジオ
フランク・ロイド・ライトと妻のオルギヴァンナ・ライト、そしてアプレンティスたちの一行が、ライトの自宅兼スタジオであったウィスコンシンの最初のタリアセンからアリゾナ州を訪れるようになったのは1920年代。アリゾナ・ビルトモア・ホテルなど、いくつかのプロジェクトの設計相談のためだった。
その後ライトは、命が危ぶまれるような重い肺炎を経験したこと、大恐慌時代でタリアセンの高額な暖房費が負担になったことから、一行が安く暮らせて冬も日差しが温かい場所に砂漠の「キャンプ」をつくることを決心し、1937年にはそのための土地を探していた。アリゾナ州に見つけた土地はタリアセン・ウェストと呼ばれるようになり、その建物のほとんどは、1938年から1950年代半ばにかけて、ライトの指揮のもとアプレンティスたちによって建てられている。
「ライトにとってタリアセン・ウェストは、素材や形状や技術を実験するための建築ラボラトリーだったんです。」2つのタリアセンを管轄する非営利団体、フランク・ロイド・ライト財団のCEOを務めるスチュアート・グラフ氏はこう語る。「ライトは今日まで、私たちの生活のしかた、建築のつくりかた、環境との関わりかたに影響を与え続けています。」
写真は、サンセット・テラスと呼ばれるポイントから眺めたところ。左から右に、設計スタジオ、事務室、キッチン・ダイニングを擁する翼が見える。ライト夫妻のプライベートな住まいはいちばん右で、メインの建物から屋根付き通路でつながっている。
ライトの田事務所兼自邸、タリアセンをたずねて