名作建築:コルビュジエのモダニズム建築遺産、8作品の誕生秘話
20世紀最高のモダニズム建築家ル・コルビュジエ。サヴォア邸からロンシャン礼拝堂、チャンディーガルまで、専門家への取材を通して偉大なる作品群の誕生秘話に迫りました。
Claire Tardy
2017年10月6日
フランス人建築家、ル・コルビュジエ(本名:シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリ)。2016年7月には代表作品17点(日本の国立西洋美術館も含まれる)がユネスコ世界遺産に登録され、モダニズムの潮流の中で極めて重要な役割を果たした建築家として世界が認めた存在だ。機能主義、純粋主義、また自然との関係性の探究といった数々の新しい思想を建築に取り入れた彼の作品は、その大半が竣工当時と変わらぬ目的・用途で現在も使われ続けている。
「建築家という職業は、19世紀までは非常に数が少なく、ごく一部のエリート階級のために仕事をする存在でした。しかし、20世紀に入ると建築家へのニーズが変化します。爆発的に増加する人口対策として、よりシンプルなフォルムで、よりすばやく安価に良質な建築をつくる必要が生じたのです。そんななか、『万人のための新しい建築』をめざして挑戦し続けた建築家たちが登場しますが、そのひとりがコルビュジエです」と、ル・コルビュジエ財団のル・コルビュジエ建築作品専門家委員会メンバーであるジル・ラゴさんは語る。
スイスに生まれだがフランス国籍を得て活躍したコルビュジエは、12か国で78の建築を完成させ、400のプロジェクトに関わり、2015年には没後50周年を迎えた。今回は、コルビュジエの研究者や専門家たちとともに8つの代表的作品を訪ねながら、数々の名作誕生にまつわる秘話を取材した。
「建築家という職業は、19世紀までは非常に数が少なく、ごく一部のエリート階級のために仕事をする存在でした。しかし、20世紀に入ると建築家へのニーズが変化します。爆発的に増加する人口対策として、よりシンプルなフォルムで、よりすばやく安価に良質な建築をつくる必要が生じたのです。そんななか、『万人のための新しい建築』をめざして挑戦し続けた建築家たちが登場しますが、そのひとりがコルビュジエです」と、ル・コルビュジエ財団のル・コルビュジエ建築作品専門家委員会メンバーであるジル・ラゴさんは語る。
スイスに生まれだがフランス国籍を得て活躍したコルビュジエは、12か国で78の建築を完成させ、400のプロジェクトに関わり、2015年には没後50周年を迎えた。今回は、コルビュジエの研究者や専門家たちとともに8つの代表的作品を訪ねながら、数々の名作誕生にまつわる秘話を取材した。
1. ラ・ロッシュ邸
概要
施主:裕福な美術品コレクターだったラウル・ラ・ロッシュ
所在地:フランス、パリ
竣工年:1923年
特徴:住居部分とオーナー所有の絵画ギャラリーからなるL字型住宅。「建築的プロムナード」というコンセプトにしたがって空間が構成されている。
ラ・ロッシュ邸は、コルビュジエの兄でありやはり建築家であったアルベールの住まいであるジャンヌレ邸と一体化した建築で、現在はル・コルビュジエ財団の事務所となっている。本来この住宅は、もっと大規模なプロジェクトの一部となる予定だった。この建物の前の通りに面した建物すべてをコルビュジエが設計するプロジェクトがあったのだ。1923年にパリ不動産銀行がこの街区の分譲を提案したが、実現にはいたらず、ラ・ロッシュ邸とジャンヌレ邸のみが竣工した。幾何学的フォルムをもつ前衛的な邸宅は近代建築の始まりを告げる作品となり、数年後にコルビュジエが提唱する「近代建築五原則」のうち屋上庭園、ピロティと水平連続窓の3つがすでに実現されている(五原則のあとの2つは、自由な平面と自由なファサード)。
ラ・ロッシュ邸の欠陥
世界的に有名になったラ・ロッシュ邸だが、斬新な建築ゆえの問題も生じた。竣工して数年後には、いくつかの欠陥のため、施主夫妻は費用を負担してリノベーションを行わざるをえなかった。
概要
施主:裕福な美術品コレクターだったラウル・ラ・ロッシュ
所在地:フランス、パリ
竣工年:1923年
特徴:住居部分とオーナー所有の絵画ギャラリーからなるL字型住宅。「建築的プロムナード」というコンセプトにしたがって空間が構成されている。
ラ・ロッシュ邸は、コルビュジエの兄でありやはり建築家であったアルベールの住まいであるジャンヌレ邸と一体化した建築で、現在はル・コルビュジエ財団の事務所となっている。本来この住宅は、もっと大規模なプロジェクトの一部となる予定だった。この建物の前の通りに面した建物すべてをコルビュジエが設計するプロジェクトがあったのだ。1923年にパリ不動産銀行がこの街区の分譲を提案したが、実現にはいたらず、ラ・ロッシュ邸とジャンヌレ邸のみが竣工した。幾何学的フォルムをもつ前衛的な邸宅は近代建築の始まりを告げる作品となり、数年後にコルビュジエが提唱する「近代建築五原則」のうち屋上庭園、ピロティと水平連続窓の3つがすでに実現されている(五原則のあとの2つは、自由な平面と自由なファサード)。
ラ・ロッシュ邸の欠陥
世界的に有名になったラ・ロッシュ邸だが、斬新な建築ゆえの問題も生じた。竣工して数年後には、いくつかの欠陥のため、施主夫妻は費用を負担してリノベーションを行わざるをえなかった。
2. 湖の家
施主:コルビュジエの両親(ジョルジュ=エドゥアール・ジャンヌレとマリー=シャルロット=アメリ・ジャンヌレ=ペレ)
所在地:スイス、コルソー
竣工年:1923年
特徴:後にコルビュジエが提唱した近代建築五原則のうち、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓の3つがすでにとりいれられている。
1912年にコルビュジエは両親のための家を設計したが、高齢の両親には広過ぎて使いにくかったため、数年後に売却し、スイスのコルソーに新たな家を設計することになる。予算は最初の家を売った代金を充てることになっていたが、買い手からの代金支払いが中断。そんな限られた予算のなかで生まれたのが、新しいモダン建築の礎を築く作品の1つとなった湖の家(母の家)だ。レマン湖のほとりの敷地は、難のある条件のため、割安に入手できたのだった。
完成後に自作を見直すことはほとんどしなかったコルビュジエだが、湖の家は例外で、しばしば両親の元を訪れて家に手を加えた。そのため、この家は年月とともに進化していった。「湖の家は湖面から4メートルの高さに立ち、ワインセラーがありました。ところが、年々湖の水位が上がり、ワインセラーが押し上げられて家が文字通り真っ二つに割れてしまいました。コルビュジエは伸縮するジョイントのある蝶番を屋根に取り付け、家が『呼吸』できるようにして、この問題に対処しました。また、南側のファサードをアルミ製の板で覆って、下から上に向かってできた大きなひび割れを隠し、視覚的な悪印象を避けようとしました」と、湖の家の学芸員であるパトリック・モゼさんは説明する。
湖の家の桐の木
コルビュジエは両親の家の庭に桐の木を植えることにこだわった。桐はチリ北部が原産で、5月に花が咲く。「コルビュジエは植物の開花期を重視し、庭に代わる代わる花が咲くよう、開花期が異なる植物を植えました」と学芸員のパトリック・モゼさんは語る。
コルビュジエが手ずから植えた桐の木は、長年庭に木陰をなげかけていたが、2012年に伐採された。剪定方法が悪かったため、6年前から木が朽ちてしまっていたのだ。「伐採した木で記念となるものをつくりたいと思いました。建築家が使う鉛筆にする案もあったのですが、材料として軽すぎるため断念しました。最終的には、伐採のようすをローザンヌ美術大学が撮影し、カッシーナとデザイナーのハイメ・アジョンのコラボで、桐を使った3つのオブジェが制作されました」とモゼさん。今では、木の記憶は、鳥、鳥の巣箱、棚という3つのインテリアアイテムとなって生き続けている。
さらに、歴史が潰えたかに思えた桐の木だが、庭を囲む石垣の内側に幼木が芽吹いているのが見つかった。先代の命を受け継ぎ、桐の木は今も庭に生き続けている。
施主:コルビュジエの両親(ジョルジュ=エドゥアール・ジャンヌレとマリー=シャルロット=アメリ・ジャンヌレ=ペレ)
所在地:スイス、コルソー
竣工年:1923年
特徴:後にコルビュジエが提唱した近代建築五原則のうち、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓の3つがすでにとりいれられている。
1912年にコルビュジエは両親のための家を設計したが、高齢の両親には広過ぎて使いにくかったため、数年後に売却し、スイスのコルソーに新たな家を設計することになる。予算は最初の家を売った代金を充てることになっていたが、買い手からの代金支払いが中断。そんな限られた予算のなかで生まれたのが、新しいモダン建築の礎を築く作品の1つとなった湖の家(母の家)だ。レマン湖のほとりの敷地は、難のある条件のため、割安に入手できたのだった。
完成後に自作を見直すことはほとんどしなかったコルビュジエだが、湖の家は例外で、しばしば両親の元を訪れて家に手を加えた。そのため、この家は年月とともに進化していった。「湖の家は湖面から4メートルの高さに立ち、ワインセラーがありました。ところが、年々湖の水位が上がり、ワインセラーが押し上げられて家が文字通り真っ二つに割れてしまいました。コルビュジエは伸縮するジョイントのある蝶番を屋根に取り付け、家が『呼吸』できるようにして、この問題に対処しました。また、南側のファサードをアルミ製の板で覆って、下から上に向かってできた大きなひび割れを隠し、視覚的な悪印象を避けようとしました」と、湖の家の学芸員であるパトリック・モゼさんは説明する。
湖の家の桐の木
コルビュジエは両親の家の庭に桐の木を植えることにこだわった。桐はチリ北部が原産で、5月に花が咲く。「コルビュジエは植物の開花期を重視し、庭に代わる代わる花が咲くよう、開花期が異なる植物を植えました」と学芸員のパトリック・モゼさんは語る。
コルビュジエが手ずから植えた桐の木は、長年庭に木陰をなげかけていたが、2012年に伐採された。剪定方法が悪かったため、6年前から木が朽ちてしまっていたのだ。「伐採した木で記念となるものをつくりたいと思いました。建築家が使う鉛筆にする案もあったのですが、材料として軽すぎるため断念しました。最終的には、伐採のようすをローザンヌ美術大学が撮影し、カッシーナとデザイナーのハイメ・アジョンのコラボで、桐を使った3つのオブジェが制作されました」とモゼさん。今では、木の記憶は、鳥、鳥の巣箱、棚という3つのインテリアアイテムとなって生き続けている。
さらに、歴史が潰えたかに思えた桐の木だが、庭を囲む石垣の内側に幼木が芽吹いているのが見つかった。先代の命を受け継ぎ、桐の木は今も庭に生き続けている。
3. ペサックの集合住宅(シテ・フリュジェ)
概要
施主:製糖業を営んでいた裕福な実業家、アンリ・フリュジェ
所在地:フランス、ペサック
建設期間:1924〜26年
特徴:労働者向けの51戸の集合住宅で、近代建築五原則を実践。「摩天楼の家」、「ぽつんと離れた家」「対になった家」、「アーケードの家」、「5点形の家」と「ジグザグの家」という6つの異なるタイプの住宅が現存している。
ペサックの集合住宅は美的にも技術的にも、また社会的にも革新的な作品だ。自ら経営する製糖工場で働く労働者たちが暮らす住まいを求めていた経営者であるアンリ・フリュジェは、規格化建築を可能にするコルビュジエの革新的な建築のアイデアに惹かれ、ペサック市に127戸からなる集合住宅を建設する決断を下す。最終的には51戸が実現した。
「ここの住宅はボルドーに当時あった貴族の邸宅よりもずっと快適でした。労働者たちのためにこうした住宅を建設し、1年分の給与に相当する価格で住宅の所有権を与えるという計画は、当時としては画期的なことでした」と話すのは、ペサック市役所で「シテ・フリュジェ(ペサックの集合住宅)=ル・コルビュジエ開発事業」を担当するシリル・ゾゾールさんだ。「実際、単なる労働者用住宅ではなく、まだ見ぬ、来るべき社会を目指して設計された1つの近代的街区なのです」。それゆえ、コルビュジエとフリュジェは、水道網の敷設を渋るペサック市をはじめとする、開発に乗り気でない関係者の態度に悩まされた。
「プロジェクトを誹謗中傷する人たちの中には、人口密度が高い集合住宅ではさまざまな病気が蔓延する、と考える人もいました」とゾゾールさん。結局、住宅は竣工から3年が経ち、ペサック市がインフラ工事を完了した1929年から売り出され、1930年に最初の住人たちが入居したのだった。
概要
施主:製糖業を営んでいた裕福な実業家、アンリ・フリュジェ
所在地:フランス、ペサック
建設期間:1924〜26年
特徴:労働者向けの51戸の集合住宅で、近代建築五原則を実践。「摩天楼の家」、「ぽつんと離れた家」「対になった家」、「アーケードの家」、「5点形の家」と「ジグザグの家」という6つの異なるタイプの住宅が現存している。
ペサックの集合住宅は美的にも技術的にも、また社会的にも革新的な作品だ。自ら経営する製糖工場で働く労働者たちが暮らす住まいを求めていた経営者であるアンリ・フリュジェは、規格化建築を可能にするコルビュジエの革新的な建築のアイデアに惹かれ、ペサック市に127戸からなる集合住宅を建設する決断を下す。最終的には51戸が実現した。
「ここの住宅はボルドーに当時あった貴族の邸宅よりもずっと快適でした。労働者たちのためにこうした住宅を建設し、1年分の給与に相当する価格で住宅の所有権を与えるという計画は、当時としては画期的なことでした」と話すのは、ペサック市役所で「シテ・フリュジェ(ペサックの集合住宅)=ル・コルビュジエ開発事業」を担当するシリル・ゾゾールさんだ。「実際、単なる労働者用住宅ではなく、まだ見ぬ、来るべき社会を目指して設計された1つの近代的街区なのです」。それゆえ、コルビュジエとフリュジェは、水道網の敷設を渋るペサック市をはじめとする、開発に乗り気でない関係者の態度に悩まされた。
「プロジェクトを誹謗中傷する人たちの中には、人口密度が高い集合住宅ではさまざまな病気が蔓延する、と考える人もいました」とゾゾールさん。結局、住宅は竣工から3年が経ち、ペサック市がインフラ工事を完了した1929年から売り出され、1930年に最初の住人たちが入居したのだった。
“7番目のタイプ” の住宅
施主のフリュジェは、シリーズで住宅を建てるというコンセプトに惹かれていたが、同時にコルビュジエに対してひとつひとつが異なる住宅を設計してほしい、と依頼。コルビュジエはモジュール化された設計の梁間の数を操作して、建物に変化をつけた。こうしてできあがったのが「摩天楼の住宅」「ぽつんと離れた住宅」「対になった住宅」「アーケードの住宅」「ジグザグの住宅」「五点形の住宅」を含む7つのタイプの住宅だった。7番目のタイプには名前がなく、また現存もしていない。「7番目のタイプとして唯一建設された住宅は、第二次世界大戦中にボルドーとスペインを結ぶ鉄道の分断を狙ったカナダ軍の空爆を受けて破壊されました」とゾゾールさんは説明する。また「ぽつんと離れた家」には、フリュジェとコルビュジエとともに仕事をしたエンジニアの名前にちなんだヴリナ邸という別名もある。「アンリ・ヴリナは仕事の報酬として住宅1棟を受け取ったのです」
家は1棟ごとにすべて異なっており、外壁のあざやかな色彩がその違いを際立たせながらも、統一感を生み出し、重々しいボリューム感を打ち消している。「ファサードに色をつけるようにとル・コルビュジエに頼んだのは、製糖業者だったフリュジェでした。当時、コルビュジエが設計した住宅の多くが白い外観を持っていました。あまりにも角砂糖に似ていると思ったフリュジェは、ペサックの集合住宅と角砂糖が関連していると思われたくなかったんですね」
施主のフリュジェは、シリーズで住宅を建てるというコンセプトに惹かれていたが、同時にコルビュジエに対してひとつひとつが異なる住宅を設計してほしい、と依頼。コルビュジエはモジュール化された設計の梁間の数を操作して、建物に変化をつけた。こうしてできあがったのが「摩天楼の住宅」「ぽつんと離れた住宅」「対になった住宅」「アーケードの住宅」「ジグザグの住宅」「五点形の住宅」を含む7つのタイプの住宅だった。7番目のタイプには名前がなく、また現存もしていない。「7番目のタイプとして唯一建設された住宅は、第二次世界大戦中にボルドーとスペインを結ぶ鉄道の分断を狙ったカナダ軍の空爆を受けて破壊されました」とゾゾールさんは説明する。また「ぽつんと離れた家」には、フリュジェとコルビュジエとともに仕事をしたエンジニアの名前にちなんだヴリナ邸という別名もある。「アンリ・ヴリナは仕事の報酬として住宅1棟を受け取ったのです」
家は1棟ごとにすべて異なっており、外壁のあざやかな色彩がその違いを際立たせながらも、統一感を生み出し、重々しいボリューム感を打ち消している。「ファサードに色をつけるようにとル・コルビュジエに頼んだのは、製糖業者だったフリュジェでした。当時、コルビュジエが設計した住宅の多くが白い外観を持っていました。あまりにも角砂糖に似ていると思ったフリュジェは、ペサックの集合住宅と角砂糖が関連していると思われたくなかったんですね」
4. サヴォア邸
概要
施主:保険会社の役員ピエール・サヴォアとその妻
所在地:フランス、ポワシー
竣工年:1928年
特徴:サヴォア夫妻はこの住宅を別荘として使用していた。コルビュジエの近代建築五原則(ピロティ、屋上庭園、自由な平面、自由なファサード、水平連続窓)が実現されている。
これから建てる別荘の計画をめぐるコルビュジエとピエール・サヴォアの最初の数回のやりとりを見ると、コルビュジエが自分の考えを施主に受け入れさせる際の辣腕ぶりがわかる。「サヴォアはコルビュジエからの最初の提案を、費用がかかりすぎるとして却下しました。そこでコルビュジエは凡庸な提案をいくつか見せます。もちろん、施主が気に入るはずがないのは承知の上。こうやって最初のプロジェクトよりずっと高くつく5つ目の提案を見事に受け入れさせたんですね」とジル・ラゴさんは説明する。コルビュジエは施主の心理の何手も先を読んでいたのだ。
新しきモダニズム建築の金字塔となる所以となった、近代建築五原則の有名な特徴に加え、サヴォア邸は住まい手の動線を考え抜いてつくられていた。「例えば、壁と1階の張り出した部分は角を丸くしてあります。サヴォア氏が車のハンドルを切る円周の半径から玄関前のカーブを計算し、快適に自動車を操作できるように設計されているのです」とル・コルビュジエ建築遺産自治体協議会会長のブノワ・コルニュさんは説明する。
概要
施主:保険会社の役員ピエール・サヴォアとその妻
所在地:フランス、ポワシー
竣工年:1928年
特徴:サヴォア夫妻はこの住宅を別荘として使用していた。コルビュジエの近代建築五原則(ピロティ、屋上庭園、自由な平面、自由なファサード、水平連続窓)が実現されている。
これから建てる別荘の計画をめぐるコルビュジエとピエール・サヴォアの最初の数回のやりとりを見ると、コルビュジエが自分の考えを施主に受け入れさせる際の辣腕ぶりがわかる。「サヴォアはコルビュジエからの最初の提案を、費用がかかりすぎるとして却下しました。そこでコルビュジエは凡庸な提案をいくつか見せます。もちろん、施主が気に入るはずがないのは承知の上。こうやって最初のプロジェクトよりずっと高くつく5つ目の提案を見事に受け入れさせたんですね」とジル・ラゴさんは説明する。コルビュジエは施主の心理の何手も先を読んでいたのだ。
新しきモダニズム建築の金字塔となる所以となった、近代建築五原則の有名な特徴に加え、サヴォア邸は住まい手の動線を考え抜いてつくられていた。「例えば、壁と1階の張り出した部分は角を丸くしてあります。サヴォア氏が車のハンドルを切る円周の半径から玄関前のカーブを計算し、快適に自動車を操作できるように設計されているのです」とル・コルビュジエ建築遺産自治体協議会会長のブノワ・コルニュさんは説明する。
サヴォア邸をめぐる訴訟
この住宅にはいくつもの欠陥があり、施主であるサヴォア夫妻は不満を訴えた。サヴォア夫人はコルビュジエに宛てて何通もの手紙を書き、複数の部屋の水漏れを報告している。
ジャン=フィリップ・デロムとジャン=マルク・サヴォアが著した『サヴォア邸の明るい時間』によれば、書簡の1つにはこんなくだりがある。「玄関でもスロープでも雨漏りしていて、ガレージの壁はすっかり湿っています。他に、浴室も年中雨漏りして、雨が降る度に水浸しです」。オーナー夫妻は設備工事のやり直しを何度も求めたが、コルビュジエは一度も応じなかった。「サヴォア夫人はとうとうコルビュジエを相手どって訴訟を起こすのですが、第二次世界大戦の勃発でうやむやになりました。サヴォア邸はゲシュタポに占拠され、次いでアメリカ軍が接収、その後はポワシー町の青少年センターになりました。美術館を建設するために解体する計画も持ち上がりましたが、市民運動によって救われました。
1965年になってようやく、アンドレ・マルローの努力によって歴史遺産に登録されたのです。コルビュジエは自作が歴史遺産になるという栄誉ある知らせを受け取った、初の建築家となりました」とパトリック・モゼさんは語る。だが、コルビュジエは歴史遺産登録の公式決定直前に亡くなった。
絶対に知っておきたいモダニズムの傑作住宅:サヴォア邸
この住宅にはいくつもの欠陥があり、施主であるサヴォア夫妻は不満を訴えた。サヴォア夫人はコルビュジエに宛てて何通もの手紙を書き、複数の部屋の水漏れを報告している。
ジャン=フィリップ・デロムとジャン=マルク・サヴォアが著した『サヴォア邸の明るい時間』によれば、書簡の1つにはこんなくだりがある。「玄関でもスロープでも雨漏りしていて、ガレージの壁はすっかり湿っています。他に、浴室も年中雨漏りして、雨が降る度に水浸しです」。オーナー夫妻は設備工事のやり直しを何度も求めたが、コルビュジエは一度も応じなかった。「サヴォア夫人はとうとうコルビュジエを相手どって訴訟を起こすのですが、第二次世界大戦の勃発でうやむやになりました。サヴォア邸はゲシュタポに占拠され、次いでアメリカ軍が接収、その後はポワシー町の青少年センターになりました。美術館を建設するために解体する計画も持ち上がりましたが、市民運動によって救われました。
1965年になってようやく、アンドレ・マルローの努力によって歴史遺産に登録されたのです。コルビュジエは自作が歴史遺産になるという栄誉ある知らせを受け取った、初の建築家となりました」とパトリック・モゼさんは語る。だが、コルビュジエは歴史遺産登録の公式決定直前に亡くなった。
絶対に知っておきたいモダニズムの傑作住宅:サヴォア邸
5. マルセイユのユニテ・ダビタシオン
概要
施主:復興省
所在地:フランス、マルセイユ
竣工年:1945年
特徴:330戸のアパルトマンからなる集合住宅で、1500人から1700人が居住可能。商店街、レストランつきのホテル、テラスのある幼稚園と複数のスポーツ施設も併設。
アパルトマン:両面採光のメゾネットは、シンプルで合理的な造り。
第二次世界大戦直後、復興省は建築と産業の融和を目指し、いくつかの試験的なプロジェクトに資金を提供する。その1つコルビュジエがマルセイユに設計したユニテ・ダビタシオンである。実験的なプロジェクトであったため、建築許可申請が特別免除となった。
概要
施主:復興省
所在地:フランス、マルセイユ
竣工年:1945年
特徴:330戸のアパルトマンからなる集合住宅で、1500人から1700人が居住可能。商店街、レストランつきのホテル、テラスのある幼稚園と複数のスポーツ施設も併設。
アパルトマン:両面採光のメゾネットは、シンプルで合理的な造り。
第二次世界大戦直後、復興省は建築と産業の融和を目指し、いくつかの試験的なプロジェクトに資金を提供する。その1つコルビュジエがマルセイユに設計したユニテ・ダビタシオンである。実験的なプロジェクトであったため、建築許可申請が特別免除となった。
「輝く都市」の無料ホテル
「まさに『垂直な村』といえる建築であり、個と集団のバランスのうえに成り立っています。コストをまとめることにより、個人住宅では手に入らない複数のサービスを享受できるようにした建築です」とジル・ラゴ氏は説明する。建物の中には商店街にコインランドリー、体育館、幼稚園、劇場、レストラン付きホテルがあり、住民の近親者はこのホテルに無料で宿泊できる。「アパルトマンにはゲストルームがありません。ゲストルームをとりまとめたのが建物内のレストラン付きホテルなのです。コルビュジエは、各戸がゲストルームを持たなくても近親者が泊まれるというシステムをつくったのです」とパトリック・モゼさんは説明する。
住民たちのために併設されたサービス施設だが、経営を継続するだけの利益は出なかった。「商店街は数年後には立ち行かなくなりました。住民の数は商業活動を支えるには十分ではなかったのです。その上、住民たちはやがて自動車を所有し、スーパーに行くようになったのです」とジル・ラゴさんは語る。一方で、ユニテ・ダビタシオンは、宅配ボックスを初めて実現することになる。「アパルトマンの各戸の前に大きな郵便箱があり、建物内の商店は客が注文した品物を入れておくことができました。現在普及しているシステムの先駆けといえる存在でした」とブノワ・コルニュさんは説明する。
名作建築:コルビュジエの集合住宅《ユニテ・ダビタシオン》の住み心地
「まさに『垂直な村』といえる建築であり、個と集団のバランスのうえに成り立っています。コストをまとめることにより、個人住宅では手に入らない複数のサービスを享受できるようにした建築です」とジル・ラゴ氏は説明する。建物の中には商店街にコインランドリー、体育館、幼稚園、劇場、レストラン付きホテルがあり、住民の近親者はこのホテルに無料で宿泊できる。「アパルトマンにはゲストルームがありません。ゲストルームをとりまとめたのが建物内のレストラン付きホテルなのです。コルビュジエは、各戸がゲストルームを持たなくても近親者が泊まれるというシステムをつくったのです」とパトリック・モゼさんは説明する。
住民たちのために併設されたサービス施設だが、経営を継続するだけの利益は出なかった。「商店街は数年後には立ち行かなくなりました。住民の数は商業活動を支えるには十分ではなかったのです。その上、住民たちはやがて自動車を所有し、スーパーに行くようになったのです」とジル・ラゴさんは語る。一方で、ユニテ・ダビタシオンは、宅配ボックスを初めて実現することになる。「アパルトマンの各戸の前に大きな郵便箱があり、建物内の商店は客が注文した品物を入れておくことができました。現在普及しているシステムの先駆けといえる存在でした」とブノワ・コルニュさんは説明する。
名作建築:コルビュジエの集合住宅《ユニテ・ダビタシオン》の住み心地
6. ロンシャンの礼拝堂
概要
施主:土地を所有する不動産会社(協力:ブザンソン司教区)
所在地:フランス、ロンシャン
竣工年:1955年
特徴:曲面のファサードが、起伏の多い風景と溶け合う。内部では、光をひとつの素材として扱っている。礼拝堂へのアプローチは周到に計算されており、丘を登り切るとはじめて目の前に建物が姿を現す。
ル・コルビュジエの言葉:「沈黙、祈り、平和、そして内面の喜びの場を作り出したいと考えた」
ロンシャンのノートルダム・デュ・オー礼拝堂がパリ解放作戦の際に破壊され、第二次世界大戦後に再建計画が立ち上がった。「コルビュジエは宗教建築はあまり手掛けていません。しかしこの礼拝堂は、宗教建築の歴史における重要作品となり、また、キリスト教会におけるモダニズムの到来を告げるものになったのです」とジル・ラゴさんは明かす。
礼拝堂がそびえ立つ丘へと登る道は、森のなかを苦労して登り切るとようやく建物が姿を現すように入念に設計されている。つづら折りの道の最後の登り坂にかかると初めてファサードの曲面が視界に入り、驚くべきフォルムが垣間見えてくる。「建物を覆うかのような分厚い屋根を内側から見上げると、訪問者は圧倒され、謙虚な気持ちになるのです」とジル・ラゴさんは説明する。
ステンドグラス損壊事件
礼拝堂の南面ファサードには大きさの異なる開口部がいくつも作られ、建物の内部には光が溢れている。2014年、コルビュジエが描いたステンドグラスの1枚が割られてしまった。2人の男が献金箱の金を盗もうと礼拝堂に侵入したが、中身が空だったため、腹いせに割ったのだ。犯人は逮捕され、「文化遺産認定建造物の損壊罪」で1年の実刑判決を受けた。割れたステンドグラスはロンシャンのノートルダム・デュ・オー礼拝堂作品協会の呼びかけで集まった寄付金により修復された。修復費用は7500ユーロだった。
もうひとつ、礼拝堂に加えられた変化が、1975年に竣工した、著名なフランス人建築家、ジャン・プルーヴェ設計の鐘楼である。「礼拝堂には20年近く鐘がありませんでした。」とブノワ・コルニュさんは説明する。コルビュジエの死後、礼拝堂の司祭はプルーヴェに鐘楼の設計を依頼。金属製のフレームに今も3つの鐘が並んでいる。2つは以前からあったもので、それぞれ1869年と1936年に製作されたもの。戦争中の爆撃をくぐり抜けたのだ。3つ目の鐘はプルーヴェの鐘楼にあわせて鋳造された。
概要
施主:土地を所有する不動産会社(協力:ブザンソン司教区)
所在地:フランス、ロンシャン
竣工年:1955年
特徴:曲面のファサードが、起伏の多い風景と溶け合う。内部では、光をひとつの素材として扱っている。礼拝堂へのアプローチは周到に計算されており、丘を登り切るとはじめて目の前に建物が姿を現す。
ル・コルビュジエの言葉:「沈黙、祈り、平和、そして内面の喜びの場を作り出したいと考えた」
ロンシャンのノートルダム・デュ・オー礼拝堂がパリ解放作戦の際に破壊され、第二次世界大戦後に再建計画が立ち上がった。「コルビュジエは宗教建築はあまり手掛けていません。しかしこの礼拝堂は、宗教建築の歴史における重要作品となり、また、キリスト教会におけるモダニズムの到来を告げるものになったのです」とジル・ラゴさんは明かす。
礼拝堂がそびえ立つ丘へと登る道は、森のなかを苦労して登り切るとようやく建物が姿を現すように入念に設計されている。つづら折りの道の最後の登り坂にかかると初めてファサードの曲面が視界に入り、驚くべきフォルムが垣間見えてくる。「建物を覆うかのような分厚い屋根を内側から見上げると、訪問者は圧倒され、謙虚な気持ちになるのです」とジル・ラゴさんは説明する。
ステンドグラス損壊事件
礼拝堂の南面ファサードには大きさの異なる開口部がいくつも作られ、建物の内部には光が溢れている。2014年、コルビュジエが描いたステンドグラスの1枚が割られてしまった。2人の男が献金箱の金を盗もうと礼拝堂に侵入したが、中身が空だったため、腹いせに割ったのだ。犯人は逮捕され、「文化遺産認定建造物の損壊罪」で1年の実刑判決を受けた。割れたステンドグラスはロンシャンのノートルダム・デュ・オー礼拝堂作品協会の呼びかけで集まった寄付金により修復された。修復費用は7500ユーロだった。
もうひとつ、礼拝堂に加えられた変化が、1975年に竣工した、著名なフランス人建築家、ジャン・プルーヴェ設計の鐘楼である。「礼拝堂には20年近く鐘がありませんでした。」とブノワ・コルニュさんは説明する。コルビュジエの死後、礼拝堂の司祭はプルーヴェに鐘楼の設計を依頼。金属製のフレームに今も3つの鐘が並んでいる。2つは以前からあったもので、それぞれ1869年と1936年に製作されたもの。戦争中の爆撃をくぐり抜けたのだ。3つ目の鐘はプルーヴェの鐘楼にあわせて鋳造された。
7. カップ=マルタンの小屋
概要
施主:コルビュジエの妻、イヴォンヌ・ジャンヌレとコルビュジエ自身
所在地:フランス、ロクブリュヌ=カップ=マルタン
竣工年:1952年
特徴:片流れ屋根をもつ15平方メートルの小屋に、リビング、ワークスペース、トイレ、洗面台、テーブル、収納が収まっている。
コルビュジエの言葉:「私はコート・ダジュールに3.66メートル四方の城をひとつ持っている。これは妻のためのも、究極の快適さと優しさにあふれている」
1996年9月3日に歴史遺産に登録されたカップ=マルタンの小屋は、栄誉ある歴史遺産登録建築のなかで最小の作品だ。「城」とはかけ離れたささやかな建物だが、最小限の住まいの探究の完成形であり、一人の人間が生きるのに必要十分な設備を備えている。すべての家具類は、広さ3.66×3.66メートル四方、高さ2.26メートルの中に収められているが、この寸法は1945年にコルビュジエが人体のサイズを元に考案した「モデュロール」という建築の基準寸法システムに従って計算されている。キッチンがないが、すぐ隣に食堂ヒトデ軒があり、食堂の主人はコルビュジエの友人だった。
わずか15分で仕上げた図面
コルビュジエはヒトデ軒の一角にあるテーブルで、わずか15分で小屋の図面を描いた、といわれている。また、隣にあったインテリアデザイナー、アイリーン・グレイの別荘、E1027を訪れた最初の人物だとも言われている。後に彼が休暇を過ごす別荘となるこの建物について、本人は次のように記している。
「1951年12月30日、コート・ダジュールの小さな食堂のテーブルの一角で、妻への誕生日プレゼントにするため、一軒の小屋の図面を描き、翌年、波が砕ける岩の突端にその小屋を建てた。図面(私の図面)は45分で描かれ、そのまま完成版となった。変更は一切なかった。モデュロールを使えば、完全に安全な設計手法となる。建物の平面は長方形で、屋根は片流れである」。1965年8月27日に、目の前の海で海水浴中に死亡するまで、コルビュジエは毎年夏にここを訪れていた。
名作住宅:コルビュジエに消されかけた女性建築家、グレイの傑作《E1027》
概要
施主:コルビュジエの妻、イヴォンヌ・ジャンヌレとコルビュジエ自身
所在地:フランス、ロクブリュヌ=カップ=マルタン
竣工年:1952年
特徴:片流れ屋根をもつ15平方メートルの小屋に、リビング、ワークスペース、トイレ、洗面台、テーブル、収納が収まっている。
コルビュジエの言葉:「私はコート・ダジュールに3.66メートル四方の城をひとつ持っている。これは妻のためのも、究極の快適さと優しさにあふれている」
1996年9月3日に歴史遺産に登録されたカップ=マルタンの小屋は、栄誉ある歴史遺産登録建築のなかで最小の作品だ。「城」とはかけ離れたささやかな建物だが、最小限の住まいの探究の完成形であり、一人の人間が生きるのに必要十分な設備を備えている。すべての家具類は、広さ3.66×3.66メートル四方、高さ2.26メートルの中に収められているが、この寸法は1945年にコルビュジエが人体のサイズを元に考案した「モデュロール」という建築の基準寸法システムに従って計算されている。キッチンがないが、すぐ隣に食堂ヒトデ軒があり、食堂の主人はコルビュジエの友人だった。
わずか15分で仕上げた図面
コルビュジエはヒトデ軒の一角にあるテーブルで、わずか15分で小屋の図面を描いた、といわれている。また、隣にあったインテリアデザイナー、アイリーン・グレイの別荘、E1027を訪れた最初の人物だとも言われている。後に彼が休暇を過ごす別荘となるこの建物について、本人は次のように記している。
「1951年12月30日、コート・ダジュールの小さな食堂のテーブルの一角で、妻への誕生日プレゼントにするため、一軒の小屋の図面を描き、翌年、波が砕ける岩の突端にその小屋を建てた。図面(私の図面)は45分で描かれ、そのまま完成版となった。変更は一切なかった。モデュロールを使えば、完全に安全な設計手法となる。建物の平面は長方形で、屋根は片流れである」。1965年8月27日に、目の前の海で海水浴中に死亡するまで、コルビュジエは毎年夏にここを訪れていた。
名作住宅:コルビュジエに消されかけた女性建築家、グレイの傑作《E1027》
8. チャンディーガル
概要
施主:インドのネルー首相
所在地:インド、チャンディーガル
竣工年:1953年
特徴:大通りによって60ほどの長方形の居住区域が形成されている。インドの生活様式に合わせた低層建築で、植物が生い茂っている。
「コルビュジエの建築活動は主にフランス国内を舞台としていましたが、同時に、コルビュジエ以前に海外でこれほど活躍した建築家はいませんでした。フランス以外の11か国に作品を残していますが、これは彼以前の建築家は誰もなし得なかったことです」とジル・ラゴさんは語る。
コルビュジエが描いた都市計画のマスタープランのなかで、唯一実現したのがチャンディーガルだ。インドの独立後、ネルー首相は新しい都市の建設を考案したが、その1つがパンジャブ州の州都チャンディーガルだった。1949年、インド政府はアメリカ人建築家のアルバート・メイヤーに最初の都市計画の立案を依頼。マイヤーは仲間のマシュー・ノヴィッキとともに仕事に取りかかったが、1950年にノヴィキが飛行機事故で死亡し、計画続行を断念した。インド当局は代わりの建築家を探すためフランスに打診し、復興省が当時、インドでは無名だったコルビュジエを紹介した。
「50万人都市を丸ごと1つ建設する――コルビュジエにとって願ってもいない挑戦でした。彼にとっては、極めてラディカルな都市計画構想を実行に移すチャンスだったのです。」とジル・ラゴさんは続ける。その結果、不毛な地方にありながら、植物の間に低層の建物群が見え隠れする、緑豊かな都市が生まれた。極めてシンプルな建築構造によって、自然通風が実現されている。「コルビュジエがマスタープランを描き、主要な建物を設計しました。その他の建物は従兄弟のピエール・ジャンヌレが担当しました」
第13区
チャンディーガルは約60の長方形の地区に分割されており、それぞれが独立した設計となっており、多くの区において、商店や学校、寺院は同じ区内の家から10分以内で行ける場所に配置されている。唯一の例外は「第13区」。迷信深いコルビュジェは13という数字を忌み嫌い、「第13区」だけは設計を担当しなかった。
概要
施主:インドのネルー首相
所在地:インド、チャンディーガル
竣工年:1953年
特徴:大通りによって60ほどの長方形の居住区域が形成されている。インドの生活様式に合わせた低層建築で、植物が生い茂っている。
「コルビュジエの建築活動は主にフランス国内を舞台としていましたが、同時に、コルビュジエ以前に海外でこれほど活躍した建築家はいませんでした。フランス以外の11か国に作品を残していますが、これは彼以前の建築家は誰もなし得なかったことです」とジル・ラゴさんは語る。
コルビュジエが描いた都市計画のマスタープランのなかで、唯一実現したのがチャンディーガルだ。インドの独立後、ネルー首相は新しい都市の建設を考案したが、その1つがパンジャブ州の州都チャンディーガルだった。1949年、インド政府はアメリカ人建築家のアルバート・メイヤーに最初の都市計画の立案を依頼。マイヤーは仲間のマシュー・ノヴィッキとともに仕事に取りかかったが、1950年にノヴィキが飛行機事故で死亡し、計画続行を断念した。インド当局は代わりの建築家を探すためフランスに打診し、復興省が当時、インドでは無名だったコルビュジエを紹介した。
「50万人都市を丸ごと1つ建設する――コルビュジエにとって願ってもいない挑戦でした。彼にとっては、極めてラディカルな都市計画構想を実行に移すチャンスだったのです。」とジル・ラゴさんは続ける。その結果、不毛な地方にありながら、植物の間に低層の建物群が見え隠れする、緑豊かな都市が生まれた。極めてシンプルな建築構造によって、自然通風が実現されている。「コルビュジエがマスタープランを描き、主要な建物を設計しました。その他の建物は従兄弟のピエール・ジャンヌレが担当しました」
第13区
チャンディーガルは約60の長方形の地区に分割されており、それぞれが独立した設計となっており、多くの区において、商店や学校、寺院は同じ区内の家から10分以内で行ける場所に配置されている。唯一の例外は「第13区」。迷信深いコルビュジェは13という数字を忌み嫌い、「第13区」だけは設計を担当しなかった。
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