100年前のアメリカ。大富豪になった黒人女性が建てた邸宅
アメリカで初めて自分の力で大富豪になった女性、マダム・C.J.ウォーカーは、アフリカ系アメリカ人でした。彼女が若者たちを鼓舞するために建てた美しい邸宅は、今もニューヨークに建っています。
A'Lelia Bundles
2020年6月11日
この記事を執筆したジャーナリストのアレリア・バンドルス(A’Lelia Bundles)にとって、マダム・C.J.ウォーカーは高祖母です。バンドルスには『On Her Own Ground: The Life and Times of Madam C.J. Walker』(英語)をはじめとする、ウォーカーについての著作があります。
マダム・C.J.ウォーカーは、ヘアケア界の伝説です。彼女は、一世紀前に米ニューヨークのハドソンバレーに建てた豪邸「ヴィラ・レワロ」で、女性起業家やアフリカ系アメリカ人の若者たちを鼓舞し、数多くの著名な友人たちをもてなしました。
マダム・C.J.ウォーカーは、ヘアケア界の伝説です。彼女は、一世紀前に米ニューヨークのハドソンバレーに建てた豪邸「ヴィラ・レワロ」で、女性起業家やアフリカ系アメリカ人の若者たちを鼓舞し、数多くの著名な友人たちをもてなしました。
特に記載がある場合を除き、写真はマダム・C.J.ウォーカー家のアーカイブより。写真:David Bohl, Historic New England
1918年6月にヴィラ・レワロに引っ越したウォーカーは、この邸宅のことを「夢の中の夢」が実現したようだと語りました。ニューヨーク・タイムズ紙は「(おとぎ話に出てくる)妖精のお姫様にふさわしい家」と評しました。
ニューヨークシティの北に位置するハドソン川沿いの町、アービントンにある邸宅は、赤い瓦屋根に白いスタッコ壁が印象的な、ネオパラディアンスタイル。ハドソン川を8キロほど下った南には、ジョン・D・ロックフェラーの邸宅であるカイカットがあり、ジェイ・グールドのリンドハーストも1.6キロほどの距離にあります。
近隣の裕福な白人たちがハドソン川対岸のニュージャージー州パリセイズを望むように家を建てたのに対し、ウォーカーはあえて通りに向けて家を建てました。州都オールバニからニューヨークシティに向かう人々の目につきやすいようにするためです。
1918年6月にヴィラ・レワロに引っ越したウォーカーは、この邸宅のことを「夢の中の夢」が実現したようだと語りました。ニューヨーク・タイムズ紙は「(おとぎ話に出てくる)妖精のお姫様にふさわしい家」と評しました。
ニューヨークシティの北に位置するハドソン川沿いの町、アービントンにある邸宅は、赤い瓦屋根に白いスタッコ壁が印象的な、ネオパラディアンスタイル。ハドソン川を8キロほど下った南には、ジョン・D・ロックフェラーの邸宅であるカイカットがあり、ジェイ・グールドのリンドハーストも1.6キロほどの距離にあります。
近隣の裕福な白人たちがハドソン川対岸のニュージャージー州パリセイズを望むように家を建てたのに対し、ウォーカーはあえて通りに向けて家を建てました。州都オールバニからニューヨークシティに向かう人々の目につきやすいようにするためです。
写真:David Bohl, Historic New England
人種差別的なジム・クロウ法によってアフリカ系アメリカ人の基本的な公民権が否定され、教育の機会や経済的な成功が妨げられていた時代に、ウォーカーが願ったのは、ヴィラ・レワロによってアフリカ系アメリカ人を鼓舞することでした。
ヴィラ・レワロを建てたのは、自己顕示欲のためではなく、むしろ「私と同じ人種の人々に、ビジネスのチャンスは豊富にあることを理解してもらい、たった一人の女性が何を成し遂げることができたのか若い黒人たちに向けて示し、自分でも大きなことをするよう鼓舞するため」だと話しました。
ウォーカーは、彼女の会社で弁護士を務めていたF.B.ランサムに宛てた手紙で「私の死後にはアービントンの家が、記念碑のような、黒人にとって有益な何らかの形で残されることを願っています。黒人の歴史誌に必ず載せてください」と記しています。
今日では、この邸宅はアメリカ合衆国国定歴史建造物であり、合衆国歴史保護ナショナル・トラストのナショナルトレジャーにも指定されています。
人種差別的なジム・クロウ法によってアフリカ系アメリカ人の基本的な公民権が否定され、教育の機会や経済的な成功が妨げられていた時代に、ウォーカーが願ったのは、ヴィラ・レワロによってアフリカ系アメリカ人を鼓舞することでした。
ヴィラ・レワロを建てたのは、自己顕示欲のためではなく、むしろ「私と同じ人種の人々に、ビジネスのチャンスは豊富にあることを理解してもらい、たった一人の女性が何を成し遂げることができたのか若い黒人たちに向けて示し、自分でも大きなことをするよう鼓舞するため」だと話しました。
ウォーカーは、彼女の会社で弁護士を務めていたF.B.ランサムに宛てた手紙で「私の死後にはアービントンの家が、記念碑のような、黒人にとって有益な何らかの形で残されることを願っています。黒人の歴史誌に必ず載せてください」と記しています。
今日では、この邸宅はアメリカ合衆国国定歴史建造物であり、合衆国歴史保護ナショナル・トラストのナショナルトレジャーにも指定されています。
ウォーカーは、ヘアケア業界のパイオニアであると同時に慈善家であり、芸術の後援者であり、さらにNAACP(全米黒人地位向上協会)の反リンチ運動を支援した政治活動家でもありました。
ウォーカーの起業家精神と女性の経済的自立の物語は、ヘアケア商品のライン「マダム・C.J.ウォーカー・ビューティー・カルチャー」、かつての本社社屋を保存した「マダム・ウォーカー・レガシーセンター」、女性エンパワーメントのためのイニシアチブ「ウォーカーズ・レガシー」、そしてオクタヴィア・スペンサーが主演するNetflixの新シリーズ「セルフメイドウーマン ~マダム・C.J.ウォーカーの場合~」などを通じて語り継がれています。
ウォーカーの起業家精神と女性の経済的自立の物語は、ヘアケア商品のライン「マダム・C.J.ウォーカー・ビューティー・カルチャー」、かつての本社社屋を保存した「マダム・ウォーカー・レガシーセンター」、女性エンパワーメントのためのイニシアチブ「ウォーカーズ・レガシー」、そしてオクタヴィア・スペンサーが主演するNetflixの新シリーズ「セルフメイドウーマン ~マダム・C.J.ウォーカーの場合~」などを通じて語り継がれています。
貧しい生い立ち
1867年12月23日、南北戦争前から両親と兄妹が奴隷として働いていたルイジアナ州デルタの農園で、ウォーカーはサラ・ブリードラブとして生まれました。オーウェンとミネルバ・ブリードラブ夫妻のもとに、奴隷解放宣言後、自由な人間として生まれた最初の子どもだったサラは、7歳で孤児となりました。
最初の夫モーゼス・マクウィリアムスの死により20歳で未亡人となった後、38歳まで貧しい洗濯婦だったウォーカーでしたが、1919年5月25日に亡くなった時には、アメリカで最も裕福なビジネスウーマンの一人となっていたのです。
マダム・C.J.ウォーカー製造会社(Madam C.J. Walker Manufacturing Co.)では、ウォーカーの歩んだ道のりを「小屋から城へ(cabin to castle)」と呼んでいました。1924年に会社から送られたクリスマスカードには、ルイジアナ州の生家とヴィラ・レワロの合成写真が描かれています。
1867年12月23日、南北戦争前から両親と兄妹が奴隷として働いていたルイジアナ州デルタの農園で、ウォーカーはサラ・ブリードラブとして生まれました。オーウェンとミネルバ・ブリードラブ夫妻のもとに、奴隷解放宣言後、自由な人間として生まれた最初の子どもだったサラは、7歳で孤児となりました。
最初の夫モーゼス・マクウィリアムスの死により20歳で未亡人となった後、38歳まで貧しい洗濯婦だったウォーカーでしたが、1919年5月25日に亡くなった時には、アメリカで最も裕福なビジネスウーマンの一人となっていたのです。
マダム・C.J.ウォーカー製造会社(Madam C.J. Walker Manufacturing Co.)では、ウォーカーの歩んだ道のりを「小屋から城へ(cabin to castle)」と呼んでいました。1924年に会社から送られたクリスマスカードには、ルイジアナ州の生家とヴィラ・レワロの合成写真が描かれています。
1906年、頭皮の感染症に悩まされ、髪の毛の多くを失ったウォーカーは、フケを改善し、発毛を促進するシャンプーと育毛剤を開発しました。彼女の商品は評判を呼び、セントルイス、デンバー、ピッツバーグを経て、1910年にインディアナポリスに本社を設立するに至りました。
1916年までには、アメリカ、カリブ海、中米でウォーカーの育毛剤(Walker’s Wonderful Hair Grower)を販売する代理店や「ビューティー・カルチャリスト」を何千人も養成しました。この写真は、1924年の第8回年次総会でヴィラ・レワロに集まった代理店の人々と従業員の様子です。
ニューヨークの魅惑
アッパー・マンハッタンのハーレムがアフリカ系アメリカ人の文化と政治の中心地になりつつあった頃、そこに美容学校と支社を作るよう母親を説得し、1913年に初めてニューヨークに移住したのは、ウォーカーの娘のアレリア・ウォーカー・ロビンソン(1885~1931。レリアから後年アレリアに改名)でした。
二人がハーレムの自宅と事業所の設計を依頼したのは、タスケギー大学とコーネル大学を卒業したヴァートナー・ウッドソン・タンディ(1885~1949)。ニューヨーク州の建築家資格を黒人として初めて取得した人物でした。
タンディは、隣り合うタウンハウスをレンガと石灰岩のネオジョージアン様式のダブルファサードに改装しました。
「今までやってきた仕事でこれに匹敵するものは、五番街にさえなかったと、内装業者が言っていました」と、ウォーカーはランサムに書いています。
ニューヨークの魅惑
アッパー・マンハッタンのハーレムがアフリカ系アメリカ人の文化と政治の中心地になりつつあった頃、そこに美容学校と支社を作るよう母親を説得し、1913年に初めてニューヨークに移住したのは、ウォーカーの娘のアレリア・ウォーカー・ロビンソン(1885~1931。レリアから後年アレリアに改名)でした。
二人がハーレムの自宅と事業所の設計を依頼したのは、タスケギー大学とコーネル大学を卒業したヴァートナー・ウッドソン・タンディ(1885~1949)。ニューヨーク州の建築家資格を黒人として初めて取得した人物でした。
タンディは、隣り合うタウンハウスをレンガと石灰岩のネオジョージアン様式のダブルファサードに改装しました。
「今までやってきた仕事でこれに匹敵するものは、五番街にさえなかったと、内装業者が言っていました」と、ウォーカーはランサムに書いています。
1916年にウォーカーは自邸をニューヨークに移しましたが、本社はインディアナポリスに残してありました。彼女はその年の後半、アービントンの土地を購入し、ヴィラ・レワロとなる邸宅の設計をタンディに依頼したのです。
この写真にあるように、ウォーカーがアレリアと共に運転手付きの車で到着した後、「近隣住民は、彼女の人種に気づき、戸惑いを隠せなかった」と、ニューヨーク・タイムズ紙が1917年11月に報じています。「『本当にそこに住むつもりなのか、それとも投機で建てているのか?』と、人々は尋ねました」
ウォーカーが実際そこに住むつもりだと知った近隣住民は唖然としました。「『ありえない!』と叫び、『彼女のような人種の女性がそんな場所に住めるはずがない』と言った」と記者は綴っています。
この写真にあるように、ウォーカーがアレリアと共に運転手付きの車で到着した後、「近隣住民は、彼女の人種に気づき、戸惑いを隠せなかった」と、ニューヨーク・タイムズ紙が1917年11月に報じています。「『本当にそこに住むつもりなのか、それとも投機で建てているのか?』と、人々は尋ねました」
ウォーカーが実際そこに住むつもりだと知った近隣住民は唖然としました。「『ありえない!』と叫び、『彼女のような人種の女性がそんな場所に住めるはずがない』と言った」と記者は綴っています。
ウォーカーは建築現場に頻繁に足を運びました。ジャーナリストで活動家のアイダ・B・ウェルズはこう書いています。「30も部屋がある家で一体何をするつもりなのか聞いてみたら、『友達をもてなすのに十分な広さが欲しいんです。ずっと一生懸命働いてきたから、休みたいのです』と彼女は答えたのです」
写真:David Bohl, Historic New England
家と庭
2万平方フィート(約1860平方メートル)のこの邸宅は、もともとブロードウェイから丘を下りハドソン川の東岸まで伸びる5エーカー(現在は2エーカー弱、つまり約8,094平方メートル)の敷地に建っていました。1918年当時の建設費は25万ドルで、これは2018年でいえば450万ドル(約4.9億円)にあたります。家具や美術品は推定10万ドル、今の180万ドル(約1.9億円)にのぼりました。
家と庭
2万平方フィート(約1860平方メートル)のこの邸宅は、もともとブロードウェイから丘を下りハドソン川の東岸まで伸びる5エーカー(現在は2エーカー弱、つまり約8,094平方メートル)の敷地に建っていました。1918年当時の建設費は25万ドルで、これは2018年でいえば450万ドル(約4.9億円)にあたります。家具や美術品は推定10万ドル、今の180万ドル(約1.9億円)にのぼりました。
写真:David Bohl, Historic New England
先の写真にあった、家の北側にある車寄せから入ると、木と金属でできた手すりのある2階への階段へと大理石の床が続いています。玄関ホール、ダイニングルーム、音楽サロン、サンルームを望むことができる開放的な造りになっています。
先の写真にあった、家の北側にある車寄せから入ると、木と金属でできた手すりのある2階への階段へと大理石の床が続いています。玄関ホール、ダイニングルーム、音楽サロン、サンルームを望むことができる開放的な造りになっています。
写真:David Bohl, Historic New England
タンディの玄関ホールのデザインは、心地さと重厚さを兼ね備えています。ガラスのドアから差し込む光は、部屋を明るく照らします。
格天井には、手描きのメダリオンが飾られています。これは2018年までヴィラ・レワロの所有者だった、ハロルドとヘレナ・ドリー夫妻が復元し、1998年、黒人大学基金連合デザイナー・ショーハウス(United Negro College Fund Designer Show House)の際に公開されました。
タンディの玄関ホールのデザインは、心地さと重厚さを兼ね備えています。ガラスのドアから差し込む光は、部屋を明るく照らします。
格天井には、手描きのメダリオンが飾られています。これは2018年までヴィラ・レワロの所有者だった、ハロルドとヘレナ・ドリー夫妻が復元し、1998年、黒人大学基金連合デザイナー・ショーハウス(United Negro College Fund Designer Show House)の際に公開されました。
ウォーカーがこの家に住んでいた時、ヘリンボーンの硬材フローリングはタブリーズ絨毯で覆われ、壁にはイタリア製のタペストリーが掛けられていました。部屋の中央には大きなオークのテーブルがあり、その上にカルティエ製のジャガーのブロンズ像が置かれていました。
ウォーカーが使っていた家具は残っていませんが、シャンデリアや燭台のほとんどは当時のものです。
ウォーカーが使っていた家具は残っていませんが、シャンデリアや燭台のほとんどは当時のものです。
セントルイスでまだ洗濯婦をしていた頃、ウォーカーとアレリアはさまざまなジャンルの音楽に親しんでいたため、友人たちをもてなす音楽サロンを併設しました。
イタリアの有名テノール歌手であるエンリコ・カルーソーがこの邸宅を訪れた際、彼の故郷ナポリを思い出させたことから、アレリアとウォーカー、そしてアレリアの最初の夫の名前であるロビンソンから2文字ずつ取り、ヴィラ・レワロ(Villa Lewaro)と名付けてはどうかと提案しました。
雲で覆われた青い空のトロンプ・ルイユが描かれた楕円のくぼみには、大きなイタリア製のクリスタルシャンデリアが2つ吊るされています。
イタリアの有名テノール歌手であるエンリコ・カルーソーがこの邸宅を訪れた際、彼の故郷ナポリを思い出させたことから、アレリアとウォーカー、そしてアレリアの最初の夫の名前であるロビンソンから2文字ずつ取り、ヴィラ・レワロ(Villa Lewaro)と名付けてはどうかと提案しました。
雲で覆われた青い空のトロンプ・ルイユが描かれた楕円のくぼみには、大きなイタリア製のクリスタルシャンデリアが2つ吊るされています。
セントルイスにいた時にウォーカーは、最新式のキルゲン・オルガンがあったセントポール・アフリカン・メソジスト・エピスコパル教会の聖歌隊のメンバーでした。このオルガンに非常に感銘を受けたウォーカーは、タンディに2万5千ドルのエスティ・オルガンを作り、家中に配管するよう指示しました。
1918年8月、アメリカ陸軍長官の特別補佐官で黒人問題を担当していたエメット・スコットに敬意を表して、ウォーカーは週末の集会を主催しました。アメリカが第一次世界大戦の真っ只中にあったため、フランスでの黒人兵士の状況や待遇、自国での公民権が主題となりました。
また、アフリカ系アメリカ人として初めてアメリカのオルガニスト協会に入会したオルガニストのメルヴィル・チャールトンと、奴隷制廃止論者で外交官フレデリック・ダグラスの孫であるバイオリニストのジョセフ・ダグラスを招き、作曲家のJ.ロザモンド・ジョンソンが編曲を担当したコンサートも開催され、100名近くの黒人と進歩的な白人のゲストたちが招待されました。
1918年8月、アメリカ陸軍長官の特別補佐官で黒人問題を担当していたエメット・スコットに敬意を表して、ウォーカーは週末の集会を主催しました。アメリカが第一次世界大戦の真っ只中にあったため、フランスでの黒人兵士の状況や待遇、自国での公民権が主題となりました。
また、アフリカ系アメリカ人として初めてアメリカのオルガニスト協会に入会したオルガニストのメルヴィル・チャールトンと、奴隷制廃止論者で外交官フレデリック・ダグラスの孫であるバイオリニストのジョセフ・ダグラスを招き、作曲家のJ.ロザモンド・ジョンソンが編曲を担当したコンサートも開催され、100名近くの黒人と進歩的な白人のゲストたちが招待されました。
写真:David Bohl, Historic New England
ヴィラ・レワロに引っ越してきた当時、ウォーカーは高血圧による重度の腎臓病である急性腎炎に苦しんでいました。
ミシガン州にあるバトルクリーク療養所とアーカンソー州ホットスプリングスでの長期療養の後、医師らは、ニードルシャワーと呼ばれる、細かい水を胴回りに噴射するシャワーの設置を勧めました。このシャワーは100年を経た今でも使うことができます。
ヴィラ・レワロに引っ越してきた当時、ウォーカーは高血圧による重度の腎臓病である急性腎炎に苦しんでいました。
ミシガン州にあるバトルクリーク療養所とアーカンソー州ホットスプリングスでの長期療養の後、医師らは、ニードルシャワーと呼ばれる、細かい水を胴回りに噴射するシャワーの設置を勧めました。このシャワーは100年を経た今でも使うことができます。
1918年12月23日、51歳の誕生日パーティーが近づくと、ウォーカーはヴィラ・レワロにクリスマスの飾り付けをさせました。クリスマスイブには、有名なアフリカ系アメリカ人彫刻家、第一次世界大戦の傷痍軍人、著名なアフリカン・メソジスト・エピスコパル教会の牧師、言語学者でワシントンD.C.にある有名なダンバー高校の教師だったハリー・クイーンといった友人たちが訪れ、ヴィラ・レワロは賑わいました。
「建物と敷地は、その美しさのすべてをもってしても、私にとっては『偉大な魂にふさわしい聖堂』でしかありませんでした。彼女の才能と功績のほうが、大理石や木でできた建物よりもはるかに優れているからです」とクイーンは後に記しています。
「建物と敷地は、その美しさのすべてをもってしても、私にとっては『偉大な魂にふさわしい聖堂』でしかありませんでした。彼女の才能と功績のほうが、大理石や木でできた建物よりもはるかに優れているからです」とクイーンは後に記しています。
写真:David Bohl, Historic New England
クリスマスの朝、暖炉のそばでキャロルや賛美歌を歌った後、ゲストは朝食のために集まりました。居心地の良いダイニングルームには埋め込み式の照明とアーチ型の天井が取り入れられ、海の妖精や思わせぶりな人魚、流し目の悪魔が描かれた幻想的な壁画があります。フォーマルディナーでは、ヘップルホワイト様式の特注ダイニングテーブルをリモージュの磁器とティファニーの銀食器が飾りました。
フレンチドアを開けると、テラコッタタイル敷きのテラスがあり、川を一望することができるようになっています。
クリスマスの朝、暖炉のそばでキャロルや賛美歌を歌った後、ゲストは朝食のために集まりました。居心地の良いダイニングルームには埋め込み式の照明とアーチ型の天井が取り入れられ、海の妖精や思わせぶりな人魚、流し目の悪魔が描かれた幻想的な壁画があります。フォーマルディナーでは、ヘップルホワイト様式の特注ダイニングテーブルをリモージュの磁器とティファニーの銀食器が飾りました。
フレンチドアを開けると、テラコッタタイル敷きのテラスがあり、川を一望することができるようになっています。
写真:David Bohl, Historic New England
4千平方フィート(約370平方メートル)の車庫は、元はウォーカーの高級車3台のためのガレージとして作られ、2階には運転手と小間使いが家族と一緒に住んでいました。
この建物は後年、黒人大学基金連合デザイナー・ショーハウスのために、広々とした2棟のアパートに改装されました。
4千平方フィート(約370平方メートル)の車庫は、元はウォーカーの高級車3台のためのガレージとして作られ、2階には運転手と小間使いが家族と一緒に住んでいました。
この建物は後年、黒人大学基金連合デザイナー・ショーハウスのために、広々とした2棟のアパートに改装されました。
ルイジアナの田舎で幼少期を過ごしたウォーカーは、農作業に慣れていました。家政婦の助けを借りて裏庭の手入れをしており「とても忙しい」と、1918年8月の手紙に書いています。「毎朝6時に草取りや、苺摘み、野菜の収穫をします。野菜や果物は卸売り用に保存加工します。女性用オーバーオールを着込んだ私は、ひとかどの『農家』のようです」
ハーレム・ルネサンスの芸術家たちが集まる場所
1919年にウォーカーが亡くなった後も、娘のアレリア(写真)はヴィラ・レワロやハーレムでの歓待を続けました。アレリアのパーティーは伝説的なもので、詩人のラングストン・ヒューズがアレリアを「1920年代におけるハーレムの歓喜の女神」と呼ぶほどでした。
彼女の友人にはハーレム・ルネサンス期の著名な俳優や芸術家、作家などもいました。ヴィラ・レワロの音楽サロンには、オルガン、グランドピアノ、ハープがあり、訪れるミュージシャンのための設備が整っていました。
1919年にウォーカーが亡くなった後も、娘のアレリア(写真)はヴィラ・レワロやハーレムでの歓待を続けました。アレリアのパーティーは伝説的なもので、詩人のラングストン・ヒューズがアレリアを「1920年代におけるハーレムの歓喜の女神」と呼ぶほどでした。
彼女の友人にはハーレム・ルネサンス期の著名な俳優や芸術家、作家などもいました。ヴィラ・レワロの音楽サロンには、オルガン、グランドピアノ、ハープがあり、訪れるミュージシャンのための設備が整っていました。
写真:Robert Levy Estate
20世紀初頭にアフリカ系アメリカ人が所有した最も有名な邸宅として、ヴィラ・レワロは象徴的な地位を確立し、誇りの源となりました。
1921年の夏、映画監督ロバート・レヴィは、無声映画「秘密の悲しみ(The Secret Sorrow)」の舞台の一部にこの家を使いました。同年、アレリアはリベリア大統領C.D.B.キングのためにテラスで花火を打ち上げ、独立記念日の週末を祝いました。
20世紀初頭にアフリカ系アメリカ人が所有した最も有名な邸宅として、ヴィラ・レワロは象徴的な地位を確立し、誇りの源となりました。
1921年の夏、映画監督ロバート・レヴィは、無声映画「秘密の悲しみ(The Secret Sorrow)」の舞台の一部にこの家を使いました。同年、アレリアはリベリア大統領C.D.B.キングのためにテラスで花火を打ち上げ、独立記念日の週末を祝いました。
1923年11月に、アレリアは娘メイの結婚披露宴をヴィラ・レワロで開催しました。ハーレムのセント・フィリップ・エピスコパル教会で素晴らしい式を挙げた後、900人のゲストがヴィラ・レワロに詰めかけました。この出来事はニューヨーク・エイジ紙とニューヨーク・タイムズ紙で大きく取り上げられました。
衰退と修復
1929年の株式市場暴落はウォーカー社の売上に壊滅的な打撃を与えました。マダム・ウォーカーの遺言でヴィラ・レワロはNAACPに遺贈されていましたが、高額な税金や維持費を賄うことができず、1930年の秋には家の中の多くの品々が競売にかけられました。大恐慌の真っ只中にあった翌年夏には、ヴィラ・レワロの評価額は17万ドルにまで落ち込みました。
アレリア・ウォーカーは1931年8月に亡くなりました。1932年、ヴィラ・レワロは、アニー・ポスとコンパニオンズ・オブ・ザ・フォレストに、高齢者レクリエーションホームとして使用するため売却されました。
1980年代半ばには、インゴ・アぺルとその妻ダーレンの手にわたり、改修工事が始められました。1993年から2018年まで、ヴィラ・レワロはドリー夫妻の所有でした。テラコッタの屋根を当時のメーカーの材料で復元するなど、ドリー夫妻は管理に細心の注意を払ってきました。
1929年の株式市場暴落はウォーカー社の売上に壊滅的な打撃を与えました。マダム・ウォーカーの遺言でヴィラ・レワロはNAACPに遺贈されていましたが、高額な税金や維持費を賄うことができず、1930年の秋には家の中の多くの品々が競売にかけられました。大恐慌の真っ只中にあった翌年夏には、ヴィラ・レワロの評価額は17万ドルにまで落ち込みました。
アレリア・ウォーカーは1931年8月に亡くなりました。1932年、ヴィラ・レワロは、アニー・ポスとコンパニオンズ・オブ・ザ・フォレストに、高齢者レクリエーションホームとして使用するため売却されました。
1980年代半ばには、インゴ・アぺルとその妻ダーレンの手にわたり、改修工事が始められました。1993年から2018年まで、ヴィラ・レワロはドリー夫妻の所有でした。テラコッタの屋根を当時のメーカーの材料で復元するなど、ドリー夫妻は管理に細心の注意を払ってきました。
写真:David Bohl, Historic New England
「ヴィラ・レワロは、アメリカの女性として、はじめて自らの力で大富豪になったマダム・C.J.ウォーカーの起業家精神の証です」と、合衆国歴史保護ナショナル・トラストが最近立ち上げたアフリカ系アメリカ人文化遺産アクション・ファンド(African American Cultural Heritage Action Fund)のディレクター、ブレント・レッグスはいいます。
「ヴィラ・レワロはアメリカの宝の一つとして、自身の能力を最大限発揮するように私たち全員を鼓舞する役割を果たし続けていくのです」
「ヴィラ・レワロは、アメリカの女性として、はじめて自らの力で大富豪になったマダム・C.J.ウォーカーの起業家精神の証です」と、合衆国歴史保護ナショナル・トラストが最近立ち上げたアフリカ系アメリカ人文化遺産アクション・ファンド(African American Cultural Heritage Action Fund)のディレクター、ブレント・レッグスはいいます。
「ヴィラ・レワロはアメリカの宝の一つとして、自身の能力を最大限発揮するように私たち全員を鼓舞する役割を果たし続けていくのです」
レッグスは続けます。「この場所は、マダム・ウォーカーが呼んだとおり、まさに『夢の中の夢』だといえます。この前例のない偉業が行われたのが、女性もアフリカ系アメリカ人も、完全な市民として認められていない時代だったことを、忘れてはなりません」
アレリア・バンドルスは、マダム・C.J.ウォーカーの娘であるアレリア・ウォーカーについての著書を執筆中です。
アレリア・バンドルスは、マダム・C.J.ウォーカーの娘であるアレリア・ウォーカーについての著書を執筆中です。
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この度の記事を掲載して頂きありがとうございます。
マダム・C.J.ウォーカーさんの人生に敬意と感謝を表したいと思います。
初めてマダム ・ウォーカーさんの存在を知ることができましたが、とても嬉しく思います。
マダム ・ウォーカーさんから、すべての人々に共通し共有しうる幸福感はやはりすべての人々が平等に共有する意識に基づいて、社会性の世界で表現し、実現化することがとても重要なことをまなびとることができました。
ありがとうございました。
偶然にも〝マダム.C.J.ウオーカーの壮大なドラマを見て感激したばかり。今あらためてこの美しい建造物を見ると、マダム ウオーカーの努力や夢や成功が永遠に息づいてるように感じます!一人の女性の情熱的な人生に勇気づけらました!素敵な記事をありがとうございました!
これが「家」の本当の意味なのかもしれません。人生を語る家。素晴らしいです。