60年前。日本に建てられたアメリカの家「米軍ハウス」とは
かつて米軍関係者が家族用の家として建てた住宅である「デペンデントハウス」や「米軍ハウス」。実は現在の日本の住宅形式や生活スタイルにも影響を与えているのです。
小椋祥司
2018年12月15日
横田基地と米軍の家族用住宅
東京都西部にある福生市には、米軍の横田基地があります。戦前、旧日本陸軍の多摩飛行場があったこの場所には、終戦後、アメリカの爆撃飛行大隊が配置され、横田飛行場が開設されました。
東京都西部にある福生市には、米軍の横田基地があります。戦前、旧日本陸軍の多摩飛行場があったこの場所には、終戦後、アメリカの爆撃飛行大隊が配置され、横田飛行場が開設されました。
その後、在日米軍司令部・第5空軍司令部が設置され、爆撃機や輸送機など大型機の基地として役割を担ってきました。特に朝鮮戦争が始まった1950年年から休戦に至るまで、物資供給の兵站基地として人員も増員されました。そのため、基地外の周辺地域に軍人、軍属の家族用住宅が建設されたのです。
デペンデントハウス
終戦直後、日本を統治するにあたり、連合軍の将校、軍人層とその家族が居住するための住宅:「Dependents Housing」(デペンデントハウス以下、DH)が日本国内に1万6千戸、朝鮮に4千戸建設されました。DHは、アメリカ人をリーダーに日本スタッフによるデザインブランチにより、教会や学校、診療所などの公共施設を含む大型住宅団地も短期間に計画的に建設されました。代々木のワシントンハイツ、練馬区のグランドハイツなどに代表され、その他にも立川には410戸、横田には405戸が建設されました。
DHのために家具や家電製品も製作されるなど、戦後の日本の家具製造や家電産業を飛躍的に発展させることになります。
終戦直後、日本を統治するにあたり、連合軍の将校、軍人層とその家族が居住するための住宅:「Dependents Housing」(デペンデントハウス以下、DH)が日本国内に1万6千戸、朝鮮に4千戸建設されました。DHは、アメリカ人をリーダーに日本スタッフによるデザインブランチにより、教会や学校、診療所などの公共施設を含む大型住宅団地も短期間に計画的に建設されました。代々木のワシントンハイツ、練馬区のグランドハイツなどに代表され、その他にも立川には410戸、横田には405戸が建設されました。
DHのために家具や家電製品も製作されるなど、戦後の日本の家具製造や家電産業を飛躍的に発展させることになります。
「米軍ハウス」は、このDHの平屋の戸建て住宅に準拠する形で建設されたものです。米軍ハウスに類似した住宅は、米軍基地があった沖縄や横須賀、三沢などでも「基地外ハウス」「外人ハウス」「アメリカンハウス」などの呼称で存在しています。ここでは、福生市、瑞穂町地域の米軍ハウスを中心にご説明していきます。
横田基地周辺の「米軍ハウス」
横田基地周辺の米軍ハウスは、隣接する福生市、瑞穂町、立川市など5市、1町に、横田基地に所属する軍人、軍属家族が居住するために建設された平屋の戸建て住宅です。
1952年の地元新聞には、横田基地の司令官が「横田基地内には500戸のハウスがあるが、200戸ほど不足している。米軍関係の家族に住宅をどんどん貸してほしい」と述べたことが記事掲載されており、住宅不足の様子がうかがえます。それを受け、翌年から米軍ハウスが建設され始めました。高額な家賃収入が得られることもあり、一時は、福生・瑞穂地域に2000戸近くあったといわれています。
横田基地周辺の米軍ハウスは、隣接する福生市、瑞穂町、立川市など5市、1町に、横田基地に所属する軍人、軍属家族が居住するために建設された平屋の戸建て住宅です。
1952年の地元新聞には、横田基地の司令官が「横田基地内には500戸のハウスがあるが、200戸ほど不足している。米軍関係の家族に住宅をどんどん貸してほしい」と述べたことが記事掲載されており、住宅不足の様子がうかがえます。それを受け、翌年から米軍ハウスが建設され始めました。高額な家賃収入が得られることもあり、一時は、福生・瑞穂地域に2000戸近くあったといわれています。
◇「米軍ハウス」の定義と構成
地元では「ハウス」という通称で呼ばれる米軍ハウスには、以下のような共通する特徴があります。
地元では「ハウス」という通称で呼ばれる米軍ハウスには、以下のような共通する特徴があります。
- 横田基地の軍人、軍属家族が居住する目的で建設された木造平屋の戸建て住宅
- 「デペンデントハウス」に準拠し、一定の基準を満たした住宅
- 横田基地周辺の地主たちが、基地関係者向けに賃貸住宅として建設
- 複数棟がまとまり、隣棟間隔にゆとりを持たせた建物配置。
- 白い木柵に囲われ、ゆとりのある芝生の庭を持つ建坪15坪前後の住宅
- 外観は切妻屋根、屋根はセメント瓦(建設当初はスレート葺き)の平屋建て住宅
- 地面と室内床との段差は少なく、内部も土足生活を基本とした住宅
- リビング、ダイニング、キッチン(LDK)と複数のベッドルームが基本
- 洗面、浴室、トイレなどの水回りを一室にまとめて設置
- 外壁はモルタル塗りに塗装仕上げ(一部の住宅はサイディング張り)木製建具を使用
- 内部の床は板張り、壁、天井はペンキ塗り
- 冬季でも軽装で過ごせるくらいの大型ストーブを設置
「米軍ハウス」の時代的変遷
福生、瑞穂地域の米軍ハウスは、横田基地の西側に集中的に建設され、地元の「福生建設」が一手に工事を行っていました。当時の大工さんによると、一棟を約1か月で建設するというスピード工事で、最盛期には、年間200~300棟位建てられていました。建設資材も不足する時代に、地元の木材を調達しながら短期間で工事を進めたそうです。
1953年から建設され始めた米軍ハウスは、1957~1958年頃に建設のピーク迎えます。アメリカから家族を呼ぶためには、基地内か、米軍ハウスに住まなければならなかった事もあり、1957年時点で、横田基地と折衝を行う、ハウス所有者により設立された「横田ハウス協会」への登録戸数だけでも1,532戸ありました。しかしながら、1961年の協会の総会では、空き家対策を議題にするなど、状況も変化しています。
福生、瑞穂地域の米軍ハウスは、横田基地の西側に集中的に建設され、地元の「福生建設」が一手に工事を行っていました。当時の大工さんによると、一棟を約1か月で建設するというスピード工事で、最盛期には、年間200~300棟位建てられていました。建設資材も不足する時代に、地元の木材を調達しながら短期間で工事を進めたそうです。
1953年から建設され始めた米軍ハウスは、1957~1958年頃に建設のピーク迎えます。アメリカから家族を呼ぶためには、基地内か、米軍ハウスに住まなければならなかった事もあり、1957年時点で、横田基地と折衝を行う、ハウス所有者により設立された「横田ハウス協会」への登録戸数だけでも1,532戸ありました。しかしながら、1961年の協会の総会では、空き家対策を議題にするなど、状況も変化しています。
その後、ベトナム戦争、中東紛争時には、基地の重要性は高まり住宅も必要でした。しかし、基地内に住宅が整備されたり、円・ドルレートの変更、基地関係者の減少などが重なり、基地外の米軍ハウスに空きが出始めます。
一方では、1960代後半には、当時のアメリカの音楽、芸術、ファッション、ライフスタイルなどの文化にあこがれた人達や、飛行機の飛来する横田基地の景観に魅了された人達が、基地関係者と入れ替わり、米軍ハウスに居住しはじめます。その中には、のちに活躍するミュージシャンや作家、アーティスト達、自由な雰囲気のある「米軍ハウス」のコミュニティを愛する人たちが住むようになりました。
一方では、1960代後半には、当時のアメリカの音楽、芸術、ファッション、ライフスタイルなどの文化にあこがれた人達や、飛行機の飛来する横田基地の景観に魅了された人達が、基地関係者と入れ替わり、米軍ハウスに居住しはじめます。その中には、のちに活躍するミュージシャンや作家、アーティスト達、自由な雰囲気のある「米軍ハウス」のコミュニティを愛する人たちが住むようになりました。
米軍ハウスのコミュニティ
数戸単位でまとまって建っている米軍ハウスには、隣家との明確な境界はありません。 敷地内には、ゆるやかなコミュニティが形成されています。1970年代以降は、米軍居住者家族や日本人家族が混じりあって生活する様子や、芝生の庭でバーベキューを楽しむ風景がよく見かけられました。また、開放的なライフスタイルであることから、他地区のハウス居住者との相互交流も多く、ハウスを通じた独特なつながりや交流があります。アメリカを最も身近に感じながら、音楽、芸術、アート、写真など芸術・文化活動を行なう熱い人たちが多く居住していたことも特徴です。現在でも居住者の多くは、長年ハウスを愛してきた人たちであり、ハウスにあこがれ、“求めてハウスに住む”人たちです。
数戸単位でまとまって建っている米軍ハウスには、隣家との明確な境界はありません。 敷地内には、ゆるやかなコミュニティが形成されています。1970年代以降は、米軍居住者家族や日本人家族が混じりあって生活する様子や、芝生の庭でバーベキューを楽しむ風景がよく見かけられました。また、開放的なライフスタイルであることから、他地区のハウス居住者との相互交流も多く、ハウスを通じた独特なつながりや交流があります。アメリカを最も身近に感じながら、音楽、芸術、アート、写真など芸術・文化活動を行なう熱い人たちが多く居住していたことも特徴です。現在でも居住者の多くは、長年ハウスを愛してきた人たちであり、ハウスにあこがれ、“求めてハウスに住む”人たちです。
米軍ハウスの現状と将来
横田基地に隣接する米軍ハウスは、ピーク時からは激減し、2004年には260戸余り、現在では160戸余りになっています。建設後60年近く経過し、建物の老朽化や所有者の世代交代、市街化などが進行し、居住性や維持管理状態も良くなく、さらなる減少が予測されます。しかしながら、横田基地に隣接する米軍ハウスを保存したり、地域の有志による保存活動やリノベーション活用、米軍ハウスそのものを生きた博物館(環境ミュージアム)としてとらえる保存活動なども徐々に進んでいます。割高の家賃にもかかわらず、米軍ハウスに憧れる入居希望者は今は一定数あるものの、将来に向けた「米軍ハウス」の保存、維持、その活用方法が求められています。
横田基地に隣接する米軍ハウスは、ピーク時からは激減し、2004年には260戸余り、現在では160戸余りになっています。建設後60年近く経過し、建物の老朽化や所有者の世代交代、市街化などが進行し、居住性や維持管理状態も良くなく、さらなる減少が予測されます。しかしながら、横田基地に隣接する米軍ハウスを保存したり、地域の有志による保存活動やリノベーション活用、米軍ハウスそのものを生きた博物館(環境ミュージアム)としてとらえる保存活動なども徐々に進んでいます。割高の家賃にもかかわらず、米軍ハウスに憧れる入居希望者は今は一定数あるものの、将来に向けた「米軍ハウス」の保存、維持、その活用方法が求められています。
「デペンデントハウス」から「米軍ハウス」に至る変遷過程は、終戦から10年を経て始まった、日本住宅公団などがすすめた住宅団地や、今日の日本の住宅の「LDK+BR」の住宅形式や、家具や家電に取り巻かれた今日の日本の生活スタイルに大きく影響を与えています。また、日本の1960年台後半からの社会的、文化的変革に大きく影響を及ぼした、音楽、ファッション、ライフスタイル、思想などの「若者文化」の萌芽が、固有のコミュニティを持つ米軍ハウスの中から生まれ、育ち、1970年代以降の日本の社会にも影響を与えました。
住宅様式、ライフスタイル、家族、コミュニティ……など、様々なことを生み出してきた「米軍ハウス」。これからの日本で“人と住まいのあり方”を考えるとき、一定の住文化を醸成してきた「米軍ハウス」の持つ意味と価値を、単なるノスタルジーの対象としてではなく、歴史的・文化的視点から再考する必要がありそうです。
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コメントをいただきありがとうございます。
機会があれば福生市の「アメリカンハウス」(土日公開)や「cafe D13」など訪ねてみてください。
フォレスト建築研究所 小椋祥司
有難うございます。アメリカンハウスは羽村駅ですか?cafe D13は基地の外に有るのですか
ご連絡ありがとうございます。cafeD13は、東福生駅から5分足らずの数件のハウスがまとまった一角にあります。こじんまりしていて自分時間が過ごせる落ち着ける空間です。コーヒ-メニュ-も豊富です。一度行かれる価値はあります。