ピーターラビットの生みの親、ビアトリクス・ポターが暮らした湖水地方の農場
愛すべき作家の自立した生活を育み、彼女の代表作をいくつも生み出す背景となった農場をご紹介します。
Marta McDowell
2020年7月28日
1905年11月のある日、39歳のポターは彼女にとっての初めての不動産であるイギリスの湖水地方にある34エーカー(約137,600㎡)の農園「ヒルトップ農場」の購入契約書にサインしました。
その時期はポターにとって、悲しく、また嬉しい時期でした。子ども向けの絵本の成功で印税収入が増えたことによる経済的な自立など、さまざまな意味で彼女は独立していました。1902年から、ポターは『ピーターラビットのおはなし』と、フレデリック・ウォーン社のために文章と絵を描きおろした6冊の本という、大変なベストセラーを世に送りだしていました。しかしある意味では、彼女の選択肢は限られていたのです。
その時期はポターにとって、悲しく、また嬉しい時期でした。子ども向けの絵本の成功で印税収入が増えたことによる経済的な自立など、さまざまな意味で彼女は独立していました。1902年から、ポターは『ピーターラビットのおはなし』と、フレデリック・ウォーン社のために文章と絵を描きおろした6冊の本という、大変なベストセラーを世に送りだしていました。しかしある意味では、彼女の選択肢は限られていたのです。
植物に覆われたヒルトップ農場の家。ポターは左側に建物を増築した。
撮影:マルタ・マクドウェル
イラスト:特筆のあるもの以外は、プロジェクト・グーテンベルグより
どんなHouzz?
住まい手:ビアトリクス・ポター
所在地:ニア・ソーリー(イギリス)
竣工年:建物の最も古い部分は1600年代のもので、その後、上げ下げ窓(1800年代)の追加やポターによる1906年の増築など、徐々に手が加えられています。
興味深い点:ポターは1906年から亡くなる1943年までこの家を使っていましたが、常にここに住んでいたわけではありませんでした。1913年まで、両親が暮らすロンドンの実家に住みながら、ヒルトップ農場では休暇を過ごしていたからです。それ以降はアトリエとして、また、アンティークのオーク家具のコレクションの置き場、さらにはゲストを泊める場所として農場の家を使っていました。その間も、庭の手入れは欠かしませんでした。
撮影:マルタ・マクドウェル
イラスト:特筆のあるもの以外は、プロジェクト・グーテンベルグより
どんなHouzz?
住まい手:ビアトリクス・ポター
所在地:ニア・ソーリー(イギリス)
竣工年:建物の最も古い部分は1600年代のもので、その後、上げ下げ窓(1800年代)の追加やポターによる1906年の増築など、徐々に手が加えられています。
興味深い点:ポターは1906年から亡くなる1943年までこの家を使っていましたが、常にここに住んでいたわけではありませんでした。1913年まで、両親が暮らすロンドンの実家に住みながら、ヒルトップ農場では休暇を過ごしていたからです。それ以降はアトリエとして、また、アンティークのオーク家具のコレクションの置き場、さらにはゲストを泊める場所として農場の家を使っていました。その間も、庭の手入れは欠かしませんでした。
家庭教師のミス・デビッドソンと写真に収まる少女時代のポター。1876年頃。写真:ビアトリクス・ポター協会
農場を手に入れる前のポターは、ロンドンの高級住宅地ケンジントンの大邸宅で使用人に囲まれ、裕福な両親とともに暮らしていました。弟のバートラムはパブリックスクールに通い、大学に進学しましたが、恥ずかしがり屋で内気な姉は、上流階級の子女の慣習として自宅で教育を受けました。両親は優秀な家庭教師たちを雇い、ポターをサウス・ケンジントンの絵画教室や油絵画家の個人レッスンに通わせました。
当時、ポターのような上流階級の若い女性は、十分な収入があっても結婚するまでは実家を出ないのが普通でした。そして、39歳で彼女が農場を手に入れる直前、「結婚」の選択肢はポターの手からこぼれ落ちました。
農場を手に入れる前のポターは、ロンドンの高級住宅地ケンジントンの大邸宅で使用人に囲まれ、裕福な両親とともに暮らしていました。弟のバートラムはパブリックスクールに通い、大学に進学しましたが、恥ずかしがり屋で内気な姉は、上流階級の子女の慣習として自宅で教育を受けました。両親は優秀な家庭教師たちを雇い、ポターをサウス・ケンジントンの絵画教室や油絵画家の個人レッスンに通わせました。
当時、ポターのような上流階級の若い女性は、十分な収入があっても結婚するまでは実家を出ないのが普通でした。そして、39歳で彼女が農場を手に入れる直前、「結婚」の選択肢はポターの手からこぼれ落ちました。
ヒルトップ農場を手に入れる6年ほど前、1899年頃のポター。
写真:ビアトリクス・ポター協会
担当編集者のノーマン・ウォーンと恋に落ちたポターは、ヒルトップ農場の契約を結ぶ4か月前の1905年7月25日に、両親の反対を押し切り(彼が生活のために働く商売人だったからです)、彼のプロポーズを受け入れました。しかしそのひと月後、結婚の直前でウォーンは急性の白血病にかかり、亡くなってしまいます。
そうして、ポターが新婚の自分たちの別荘として思い描いていたかもしれない家に、彼女はひとりで住むことになったのです。
写真:ビアトリクス・ポター協会
担当編集者のノーマン・ウォーンと恋に落ちたポターは、ヒルトップ農場の契約を結ぶ4か月前の1905年7月25日に、両親の反対を押し切り(彼が生活のために働く商売人だったからです)、彼のプロポーズを受け入れました。しかしそのひと月後、結婚の直前でウォーンは急性の白血病にかかり、亡くなってしまいます。
そうして、ポターが新婚の自分たちの別荘として思い描いていたかもしれない家に、彼女はひとりで住むことになったのです。
ポターが愛したのどかなカンブリアの田舎にある、ヒルトップ農場とニア・ソーリー村。左端の林の向こうにヒルトップ農場の家と敷地が見えます。
写真:デイヴ・ワード(フィグメント・フォトグラフィー)
色々なことがありましたが、ポターは立地も含めヒルトップ農場を愛していました。農場は、イギリス北部カンブリア州のニア・ソーリーのなだらかな丘にありました。彼女は家族と一緒に何度もここを訪れたことがあり、1896年の夏の旅行では、日記に「私が今まで住んだ場所のなかでも完璧に近い小さな家」と記しています。
写真:デイヴ・ワード(フィグメント・フォトグラフィー)
色々なことがありましたが、ポターは立地も含めヒルトップ農場を愛していました。農場は、イギリス北部カンブリア州のニア・ソーリーのなだらかな丘にありました。彼女は家族と一緒に何度もここを訪れたことがあり、1896年の夏の旅行では、日記に「私が今まで住んだ場所のなかでも完璧に近い小さな家」と記しています。
改築後のヒルトップ農場中心部の図面。タワー・バンク・アームズは隣のパブで、農場と庭の壁を共有しています。(クリックで拡大)
図面:ヨランダ・V・フンドラ
改築後のヒルトップ農場中心部の図面。タワー・バンク・アームズは隣のパブで、農場と庭の壁を共有しています。(クリックで拡大)
図面:ヨランダ・V・フンドラ
孤独な独り身のポターは家の改修で気を紛らわそうと、まずは施工業者を雇って、17世紀の家に棟を増築しました。農場管理者のキャノン一家がそこに住まいながら、耕作や畜産など農場の日常業務を行えるようにするためです。庭だけはポターの管轄で、最良のなぐさめでもありました。
ポターは「私の近況はと言えば、最近は庭いじりのことばかりです」と、ノーマンの妹・ミリーへの手紙に書きました。ポターは、車道をずらして家の玄関までつづく長いアプローチを作ろうと決め、石工たちに花壇と長い石畳の小道を作らせ、外壁を修理させました。壁で囲われた家庭菜園のために鍛冶職人がこしらえた装飾的な鉄の入り口を、ポターは明るい新緑色に塗装しました。長いアプローチを仕切る頑丈な木の格子垣を大工が据え付け、ポターの設計に高さを加えました。
図面:ヨランダ・V・フンドラ
改築後のヒルトップ農場中心部の図面。タワー・バンク・アームズは隣のパブで、農場と庭の壁を共有しています。(クリックで拡大)
図面:ヨランダ・V・フンドラ
孤独な独り身のポターは家の改修で気を紛らわそうと、まずは施工業者を雇って、17世紀の家に棟を増築しました。農場管理者のキャノン一家がそこに住まいながら、耕作や畜産など農場の日常業務を行えるようにするためです。庭だけはポターの管轄で、最良のなぐさめでもありました。
ポターは「私の近況はと言えば、最近は庭いじりのことばかりです」と、ノーマンの妹・ミリーへの手紙に書きました。ポターは、車道をずらして家の玄関までつづく長いアプローチを作ろうと決め、石工たちに花壇と長い石畳の小道を作らせ、外壁を修理させました。壁で囲われた家庭菜園のために鍛冶職人がこしらえた装飾的な鉄の入り口を、ポターは明るい新緑色に塗装しました。長いアプローチを仕切る頑丈な木の格子垣を大工が据え付け、ポターの設計に高さを加えました。
ポターは新しい家の庭に溢れんばかりの植物を植えました。
庭は魔法のように彼女の気分を明るくしました。時には、次作の挿絵に取りかかる代わりに、「荒々しく」庭仕事に向かいました。庭いじりは癒しでした。「屋外で過ごすことほど、今の不安と過去の悲しみをなだめてくれるものはない」と、後に書いています。
庭は魔法のように彼女の気分を明るくしました。時には、次作の挿絵に取りかかる代わりに、「荒々しく」庭仕事に向かいました。庭いじりは癒しでした。「屋外で過ごすことほど、今の不安と過去の悲しみをなだめてくれるものはない」と、後に書いています。
ヒルトップ農場の庭にて、おめかししたこねこのトムと妹たち。『こねこのトムのおはなし』の冒頭より。 1907年出版。
彼女の次作である『こねこのトムのおはなし』には、次の写真にも写っている庭の石壁、格子垣、アプローチ、家の正面などが登場しました。パンジー、ナデシコ、バラ、クレマチス、ボタンなど、たくさんの花々が彼女の細密な水彩画のなかで咲き誇りました。
彼女の次作である『こねこのトムのおはなし』には、次の写真にも写っている庭の石壁、格子垣、アプローチ、家の正面などが登場しました。パンジー、ナデシコ、バラ、クレマチス、ボタンなど、たくさんの花々が彼女の細密な水彩画のなかで咲き誇りました。
物語の最後に、庭で洋服を無くしたこねこのトムと妹たち。
ポターが庭に生まれ変わらせた家の入り口には、花々が咲き乱れました。それは、彼女が若い頃にロンドンで親しんだ、こぎれいで取り澄ましたヴィクトリア調の花壇とは似ても似つかないものでした。ヒルトップ農場ではツタ薔薇がよじ登り垂れ下がり、多年草と一年草の植物がごちゃまぜになって、ライラックやボケ、スグリなどの低木を取り囲みました。
彼女は手入れについては特に細かくなく、「私の庭は、適合した植物が生き残る場」「常に花と雑草でいっぱい」と、いとこのキャロラインへ手紙を宛てています。スノードロップ、パンジー、水仙、ボタン、ゴウダソウにホタルブクロ、おいらん草、菊などが次々に咲きました。彼女は後に手紙でこの庭を、「昔風の、普通の農園です」と表現しました。
ポターが庭に生まれ変わらせた家の入り口には、花々が咲き乱れました。それは、彼女が若い頃にロンドンで親しんだ、こぎれいで取り澄ましたヴィクトリア調の花壇とは似ても似つかないものでした。ヒルトップ農場ではツタ薔薇がよじ登り垂れ下がり、多年草と一年草の植物がごちゃまぜになって、ライラックやボケ、スグリなどの低木を取り囲みました。
彼女は手入れについては特に細かくなく、「私の庭は、適合した植物が生き残る場」「常に花と雑草でいっぱい」と、いとこのキャロラインへ手紙を宛てています。スノードロップ、パンジー、水仙、ボタン、ゴウダソウにホタルブクロ、おいらん草、菊などが次々に咲きました。彼女は後に手紙でこの庭を、「昔風の、普通の農園です」と表現しました。
ポターはアプローチのほかに、緑色の入り口のある菜園でも作業しました。菜園にはルバーブや野菜、多年草が育つスペースが十分にあり、また、敷地を囲む石壁は、湖水地方の寒い冬から作物を守る役割を果たしました。
彼女は菜園のそばの果樹園にも手を入れ、古い木々には「液体肥料」と称して紅茶の堆肥を与えました。ポターの言葉を借りれば、りんごは「見事な料理人」でした。
彼女は菜園のそばの果樹園にも手を入れ、古い木々には「液体肥料」と称して紅茶の堆肥を与えました。ポターの言葉を借りれば、りんごは「見事な料理人」でした。
ヒルトップ農場で育つスノードロップ。
写真:デイヴ・ワード(フィグメント・フォトグラフィー)
1913年、ポターは弁護士のウィリアム・ヒーリスと結婚しました。ポターは売りに出された近隣の農地も購入しており、彼は数年に渡ってこの土地取引の援助をしていました。
夫婦は終のすみかとして、ニア・ソーリー村のカッスル・コテージ(ヒルトップ農場と道向かいの、ポターの所有地)に移りました。彼らはその「城」に建物と近代的設備を付け加え、ポターはここでも庭仕事をしましたが、ヒルトップ農場とその庭は特別な場所としてそのまま保ちました。
写真:デイヴ・ワード(フィグメント・フォトグラフィー)
1913年、ポターは弁護士のウィリアム・ヒーリスと結婚しました。ポターは売りに出された近隣の農地も購入しており、彼は数年に渡ってこの土地取引の援助をしていました。
夫婦は終のすみかとして、ニア・ソーリー村のカッスル・コテージ(ヒルトップ農場と道向かいの、ポターの所有地)に移りました。彼らはその「城」に建物と近代的設備を付け加え、ポターはここでも庭仕事をしましたが、ヒルトップ農場とその庭は特別な場所としてそのまま保ちました。
1913年にポターがウィリアム・ヒーリスとの結婚後に移り住んだカッスル・コテージには、今も水仙が咲いている。
写真:デイヴ・ワード(フィグメント・フォトグラフィー)
ポターは、ヒーリスの妻として幸せでした。結婚生活について友人に語るとき、シェイクスピアにちなんで「人生の最後の収穫期に、やっと春のおこぼれがあった」と言っています。
人生のこの新しい時期に、ポターは田舎暮らしに情熱を注ぎました。
実用的なウールの作業着、大きな麦わら帽子に木靴を身に着けて農業にいそしみ、ほとんどの農作業を巧みにこなしました。羊飼いや農家とともに在来種の羊の飼育にも尽力したポターは、女性として初めて、ハードウィックシープ飼育者協会会長に選ばれました。
1918年に出版された『街ねずみジョニーのおはなし』に登場する、いなかねずみのティミー・ウィリー。庭はカッスル・コテージのものにそっくり。
2018年は、イソップ童話の改作である『街ねずみジョニーのおはなし』刊行から100年を数えます。主人公のまちねずみジョニーは、いかにもポターのものにそっくりな庭で生まれた、いなかねずみのティミー・ウィリーと知り合い、互いのすみかを訪問するようになります。
おはなしは、ポターによる次のような言葉で締めくくられます。「ある場所はある人にとって居心地がよく、また別の人には別の場所が居心地がよいものです。わたしはどうかですって!? わたしはティミー・ウィリーと同じで、田舎に住むほうが好きですよ」
2018年は、イソップ童話の改作である『街ねずみジョニーのおはなし』刊行から100年を数えます。主人公のまちねずみジョニーは、いかにもポターのものにそっくりな庭で生まれた、いなかねずみのティミー・ウィリーと知り合い、互いのすみかを訪問するようになります。
おはなしは、ポターによる次のような言葉で締めくくられます。「ある場所はある人にとって居心地がよく、また別の人には別の場所が居心地がよいものです。わたしはどうかですって!? わたしはティミー・ウィリーと同じで、田舎に住むほうが好きですよ」
庭に立ついなかねずみのティミー・ウィリー
ポターは、湖水地方への愛情を遺産という形で残しました。彼女は1943年に、夫のヒーリスはその一年半後に亡くなりますが、4000エーカー(約16.2㎢)の農地がナショナル・トラストに遺贈されました。遺産には、ヒルトップ農場とその調度品、美術品と縫製品、また、ヒーリスが亡くなる直前まで暮らしたカッスル・コテージが含まれていました。
ポターは、湖水地方への愛情を遺産という形で残しました。彼女は1943年に、夫のヒーリスはその一年半後に亡くなりますが、4000エーカー(約16.2㎢)の農地がナショナル・トラストに遺贈されました。遺産には、ヒルトップ農場とその調度品、美術品と縫製品、また、ヒーリスが亡くなる直前まで暮らしたカッスル・コテージが含まれていました。
農場ツアーの順番待ちをする参加者が遠くに見える。
ポターの家とその長いアプローチ、菜園のある庭は今でも訪ねることができます。ポターの手入れと丁寧な管理のおかげで、まわりの田園風景は彼女が住んでいた当時そのままです。
ヒルトップ農場を訪問するには:英国カンブリア州アンブルサイド、ホークスヘッド、ニア・ソーリー所在。2018年は2月10日から10月28日の間、月曜日〜日曜日まで開館。それ以降は週末のみ公開。入場料は子どもで8.5ドルほど(6ポンド)、大人で17ドルほど(12ポンド)。詳しくはこちら(英語)。
このほか、ビアトリクス・ポター協会のウェブサイトは、ポターについての情報の宝庫です。
こちらの記事を執筆したマータ・マクダウェルは、2013年に『Beatrix Potter’s Gardening Life: The Plants and Places That Inspired the Classic Children’s Tales』(邦題『ビアトリクス・ポターのガーデニング・ライフ』)の著者です。この本には、ポターが庭で育て、絵本にも登場させたすべての植物のリストが掲載されています。ビアトリクス・ポター協会のメンバーでもあり、ニューヨーク植物園で景観史と園芸を教えています。
ポターの家とその長いアプローチ、菜園のある庭は今でも訪ねることができます。ポターの手入れと丁寧な管理のおかげで、まわりの田園風景は彼女が住んでいた当時そのままです。
ヒルトップ農場を訪問するには:英国カンブリア州アンブルサイド、ホークスヘッド、ニア・ソーリー所在。2018年は2月10日から10月28日の間、月曜日〜日曜日まで開館。それ以降は週末のみ公開。入場料は子どもで8.5ドルほど(6ポンド)、大人で17ドルほど(12ポンド)。詳しくはこちら(英語)。
このほか、ビアトリクス・ポター協会のウェブサイトは、ポターについての情報の宝庫です。
こちらの記事を執筆したマータ・マクダウェルは、2013年に『Beatrix Potter’s Gardening Life: The Plants and Places That Inspired the Classic Children’s Tales』(邦題『ビアトリクス・ポターのガーデニング・ライフ』)の著者です。この本には、ポターが庭で育て、絵本にも登場させたすべての植物のリストが掲載されています。ビアトリクス・ポター協会のメンバーでもあり、ニューヨーク植物園で景観史と園芸を教えています。
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