名作住宅:バウハウス初の実験住宅《ハウス・アム・ホルン》
バウハウスが1923年にワイマールに建設した実験住宅《ハウス・アム・ホルン》。世界遺産でもあるこの住宅は、バウハウスの精神を今に伝えている。
Eva Zimmermann
2016年6月14日
1922年という時代を想像してみてほしい。リンドバーグが太平洋横断飛行を達成する前、荷馬車のような形の自動車が走り回っていた時代。ゲーテやシラーに代表されるドイツ古典主義を生んだワイマールの地に革新的な造形学校バウハウスが誕生したのは、その3年前の1919年のことだ。バウハウスは、当時の人々の目には「クレイジー」に映るほどユニークで熱意にあふれる活動を展開していた。バウハウスに関わった人々は、なぜあれほど熱狂的に、しかも独自の手法でデザインを探究したのだろうか?
チューリンゲン州政府の関係者も、同じ疑問を抱いたようで、バウハウスの校長を務めるワルター・グロピウスを召喚し、バウハウスの活動成果を説明するよう要請した。チューリンゲン州政府はこのころ、バウハウスを支援する立場をとっていた。そこで、グロピウスはバウハウス最初の建築作品《ハウス・アム・ホルン》をつくり、その要請に応えた。1923年にはこの住宅を始めとするさまざまなプロジェクトを展示し、バウハウス運動とその教育の革新的な可能性を世に示したのだった。
しかしやがて、財政的および政治的圧力がかかり、バウハウスはワイマールを追われてデッサウへ移転。《ハウス・アム・ホルン》は売却された。その後、ナチスの弾圧と第二次大戦の暗黒の時代を生き延びた《ハウス・アム・ホルン》は、現在はユネスコの世界文化遺産に登録され、モダニズムという革新的概念が初めて大きく開花した場所として位置づけられている。
チューリンゲン州政府の関係者も、同じ疑問を抱いたようで、バウハウスの校長を務めるワルター・グロピウスを召喚し、バウハウスの活動成果を説明するよう要請した。チューリンゲン州政府はこのころ、バウハウスを支援する立場をとっていた。そこで、グロピウスはバウハウス最初の建築作品《ハウス・アム・ホルン》をつくり、その要請に応えた。1923年にはこの住宅を始めとするさまざまなプロジェクトを展示し、バウハウス運動とその教育の革新的な可能性を世に示したのだった。
しかしやがて、財政的および政治的圧力がかかり、バウハウスはワイマールを追われてデッサウへ移転。《ハウス・アム・ホルン》は売却された。その後、ナチスの弾圧と第二次大戦の暗黒の時代を生き延びた《ハウス・アム・ホルン》は、現在はユネスコの世界文化遺産に登録され、モダニズムという革新的概念が初めて大きく開花した場所として位置づけられている。
ハウス・アム・ホルン概要
建物概要:バウハウスが建てた最初の建築物
所在地:ドイツ、チューリンゲン州ワイマール
規模:120平方メートル
設計:ゲオルク・ムッヘ(設計)とバウハウスの学生(マルセル・ブロイヤー、グンタ・シュテルツル、アルマ・ブッシャー(内装)
現在、バウハウスと聞いて私たちがまず思い浮かべるのは、建築だろう。デッサウにあるバウハウスの校舎と《親方の家(マスターズ・ハウス)》はよく知られている。建築家のワルター・グロピウス、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエはともにバウハウスの活動との関連で語られることが多い。しかし、グロピウスなど、バウハウスに関わった人びとにとって、ここでの活動は建築という枠組みを越えた総合的な取り組みだった。
「あらゆる芸術を再統合することが、バウハウス運動のコンセプトの中心にあったのです」と語るのは、《ハウス・アム・ホルン》のディレクターで、ワイマールにあるバウハウス・ミュージアムのキュレーターを務めるミハエル・ジーベンブロートさんだ。「バウハウスでは、すべての人がチームの一員として活動しました。工房がたくさんあり、工業生産用の規格化プロダクトを制作していました。バウハウスはある特定のスタイルを生み出そうとしたのではありません。スタイルとは模倣を意味するからです。バウハウスは新たな創作をめざす学校だったのです。」
建物概要:バウハウスが建てた最初の建築物
所在地:ドイツ、チューリンゲン州ワイマール
規模:120平方メートル
設計:ゲオルク・ムッヘ(設計)とバウハウスの学生(マルセル・ブロイヤー、グンタ・シュテルツル、アルマ・ブッシャー(内装)
現在、バウハウスと聞いて私たちがまず思い浮かべるのは、建築だろう。デッサウにあるバウハウスの校舎と《親方の家(マスターズ・ハウス)》はよく知られている。建築家のワルター・グロピウス、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエはともにバウハウスの活動との関連で語られることが多い。しかし、グロピウスなど、バウハウスに関わった人びとにとって、ここでの活動は建築という枠組みを越えた総合的な取り組みだった。
「あらゆる芸術を再統合することが、バウハウス運動のコンセプトの中心にあったのです」と語るのは、《ハウス・アム・ホルン》のディレクターで、ワイマールにあるバウハウス・ミュージアムのキュレーターを務めるミハエル・ジーベンブロートさんだ。「バウハウスでは、すべての人がチームの一員として活動しました。工房がたくさんあり、工業生産用の規格化プロダクトを制作していました。バウハウスはある特定のスタイルを生み出そうとしたのではありません。スタイルとは模倣を意味するからです。バウハウスは新たな創作をめざす学校だったのです。」
わずか4ヵ月で竣工した《ハウス・アム・ホルン》も、バウハウスらしい新たな創作にあふれている。この家は、バウハウスの全工房が建築から内装までを手掛けて完成させた、実験住宅である。
当初の構想では、この住宅を手始めに、現在の大学キャンパスのようなバウハウスコミュニティを展開する予定だった。だが1924年の州選挙でチューリンゲン州議会の情勢が変わり、新たに政権を握った保守派勢力はバウハウスの予算を半減する。1925年、バウハウスはデッサウに移転したため、コミュニティ構想は実現しなかった。
当初の構想では、この住宅を手始めに、現在の大学キャンパスのようなバウハウスコミュニティを展開する予定だった。だが1924年の州選挙でチューリンゲン州議会の情勢が変わり、新たに政権を握った保守派勢力はバウハウスの予算を半減する。1925年、バウハウスはデッサウに移転したため、コミュニティ構想は実現しなかった。
《ハウス・アム・ホルン》は実験住宅だが、設計したのは、建築家ではなく画家でグラフィックデザインも手がけたゲオルク・ムッヘだった。ムッヘはバウハウスの織物工房を率いていた。のちに高く評価されることになる造形家たちも、学生としてこの家の建設に参加している。マルセル・ブロイヤーはリビングの家具と「女性の部屋」の家具や調度のデザインを手がけた。マルタ・エルプスはラグを製作し、マイスターの1人ラスロ・モホリ=ナジは「男性の部屋」の照明デザインを担当している。
《ハウス・アム・ホルン》はバウハウスの敷地内の庭に建てられ、庭の菜園では食堂で使う食料を学生たちがみずから育てていた。建築には当時は斬新とされた資材を取り入れている。壁と天井はセメントでつないだスラブコンクリートの軽量ブロックを使用し、石積みの二重壁の間にトルフォリウムと呼ばれる断熱材の層を入れた構造だ。薄く、エネルギー効率のいい素材のため、輸送コストも減らせるし、暖房費用も抑えられる。
「史上初のエコ住宅といっていいかもしれません。新工法のおかげで、当時の標準的住宅に比べて暖房費用は半分ですんだのです」とジーベンブロートさんは話す。
《ハウス・アム・ホルン》はバウハウスの敷地内の庭に建てられ、庭の菜園では食堂で使う食料を学生たちがみずから育てていた。建築には当時は斬新とされた資材を取り入れている。壁と天井はセメントでつないだスラブコンクリートの軽量ブロックを使用し、石積みの二重壁の間にトルフォリウムと呼ばれる断熱材の層を入れた構造だ。薄く、エネルギー効率のいい素材のため、輸送コストも減らせるし、暖房費用も抑えられる。
「史上初のエコ住宅といっていいかもしれません。新工法のおかげで、当時の標準的住宅に比べて暖房費用は半分ですんだのです」とジーベンブロートさんは話す。
ワイマールにも暮らした、比較的無名の表現主義画家のひとり、パウル・コザーの油絵。写真は2016年5月に《ハウス・アム・ホルン》で開催された企画展。
《ハウス・アム・ホルン》を訪れた人は、バウハウスについての認識を新たにする。「いわゆる『白いモダニズム』とは、ある意味で、実際には存在しなかったといっていいでしょう。モダニズム=白というイメージは、メディアが生み出したもの。建築雑誌でプロジェクトを取り上げるとき、1970年代以前は白黒写真が一般的でした。でも実際のところ、バウハウスにはしっかり色が存在していたんです」とジーベンブロートさんは話す。当時も今も《ハウス・アム・ホルン》を見れば一目瞭然だ。
《ハウス・アム・ホルン》は地中海の中庭式住宅(コートハウス)を思わせる配置で、中心になる部屋の周囲を他の部屋が取り囲む形になっている。中央に位置するリビングは面積の3分の1を占め、採光用の高窓から自然光が入る。リビングを取り巻くように、小さなワークルーム、男性の部屋、トイレとバスルーム、女性の部屋、子ども部屋、ダイニング、キッチン、ゲストルームの各部屋が位置する。
《ハウス・アム・ホルン》を訪れた人は、バウハウスについての認識を新たにする。「いわゆる『白いモダニズム』とは、ある意味で、実際には存在しなかったといっていいでしょう。モダニズム=白というイメージは、メディアが生み出したもの。建築雑誌でプロジェクトを取り上げるとき、1970年代以前は白黒写真が一般的でした。でも実際のところ、バウハウスにはしっかり色が存在していたんです」とジーベンブロートさんは話す。当時も今も《ハウス・アム・ホルン》を見れば一目瞭然だ。
《ハウス・アム・ホルン》は地中海の中庭式住宅(コートハウス)を思わせる配置で、中心になる部屋の周囲を他の部屋が取り囲む形になっている。中央に位置するリビングは面積の3分の1を占め、採光用の高窓から自然光が入る。リビングを取り巻くように、小さなワークルーム、男性の部屋、トイレとバスルーム、女性の部屋、子ども部屋、ダイニング、キッチン、ゲストルームの各部屋が位置する。
ジーベンブロートさんは「バウハウス友の会」の会長でもあり、バウハウスとの縁は子ども時代にさかのぼる。「私が最初に絵を教わったのが、バウハウスで学んだヘートヴィヒ・フシュケでした。幼いころ、フシュケおばさんの家に行くといつも、小さなバウハウス製の椅子に座って、バウハウス製の小さなお皿でおやつを食べさせてもらったものです」と振り返る。
ジーベンブロートさんはベルリンのアドラースホーフ地区で育った。自宅はかつてバウハウスでも教えたルートヴィヒ・ヒルベルザイマーが手がけた集合住宅だ。マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルクでは、父親ほど年の離れた画家で版画家のコンラート・フェリクスミュラーと親交を結んだ。彼にとってバウハウスとのつながりは運命のようなものだった。《ハウス・アム・ホルン》を案内してくれるジーベンブロートさんからは、熱意が伝わってくる。写真は、マルセル・ブロイヤーがデザインした椅子(リプロダクト)に腰掛けるご本人。
建築当時のオリジナルの家具は失われて久しい。1923年の展示は8月15日から9月30日までのわずか8週間だけだった。その後、家は何度か住み手を変え、改装や改築が重ねられた。
ジーベンブロートさんはベルリンのアドラースホーフ地区で育った。自宅はかつてバウハウスでも教えたルートヴィヒ・ヒルベルザイマーが手がけた集合住宅だ。マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルクでは、父親ほど年の離れた画家で版画家のコンラート・フェリクスミュラーと親交を結んだ。彼にとってバウハウスとのつながりは運命のようなものだった。《ハウス・アム・ホルン》を案内してくれるジーベンブロートさんからは、熱意が伝わってくる。写真は、マルセル・ブロイヤーがデザインした椅子(リプロダクト)に腰掛けるご本人。
建築当時のオリジナルの家具は失われて久しい。1923年の展示は8月15日から9月30日までのわずか8週間だけだった。その後、家は何度か住み手を変え、改装や改築が重ねられた。
キッチンはベニータ・オッテの設計。当時の写真を元に忠実に再現されている。1926年にシステムキッチンの先駆けといわれるマルガレーテ・シュッテ=リホツキー設計の「フランクフルト・キッチン」が誕生したが、その3年前にこのキッチンはつくられた。シュッテ=リホツキーはおそらくこのキッチンの実物か写真を目にしていただろうと思われる。ドイツ建築家協会は1923年の年次総会をワイマールで開いたため、建築関係の専門家多数が《ハウス・アム・ホルン》を訪れた。また、グロピウスの建築事務所で所長となり、ハウス・アム・ホルンの建設では現場監督も務めた建築家のアドルフ・マイヤーは、のちにフランクフルトへ移り、エルンスト・マイとともにフランクフルトの公営住宅プログラムに携わっている。
ダイニングルームからキッチンを見た写真。床はゴムをはった部分と、写真のように当時リノリウムの代用品として使われたトリオリンを使用した部分がある。第一次大戦後、資材が限られ、リノリウムには高い税金がかけられたため、トリオリンが代用品としてよくつかわれていた。
「今ここにある作品はどれも学生の手によるものです。すべて誰がつくったのか名前がわかるようになっているのが驚きです。学生が制作した作品はみな学校に所属するものとなっていたんですね」とジーベンブロートさんは説明する。
子ども部屋には、木彫工房に所属していた学生、アルマ・ブッシャーが考案した、多機能につかえる遊びスペース(プレイグラウンド)がつくられている。ブッシャーは天井の照明もデザインした。もともとは映写装置として考案されたもので、クランクを回して下へ降ろせば、子どもたちが好きな形に切り抜いた厚紙などを置いて光と影の遊びを楽しめるというアイデアだった。
「モホリ=ナジは、このすぐあとに有名な作品《ライト・スペース・モジュレータ》(光と影を利用した機械仕掛けの装置)を制作しました。バウハウスの工房を見て回り、ブッシャーのこの照明にヒントを得たのかもしれませんね」とジーベンブロートさんは説明しながらウインクしてみせた。
子ども部屋には、木彫工房に所属していた学生、アルマ・ブッシャーが考案した、多機能につかえる遊びスペース(プレイグラウンド)がつくられている。ブッシャーは天井の照明もデザインした。もともとは映写装置として考案されたもので、クランクを回して下へ降ろせば、子どもたちが好きな形に切り抜いた厚紙などを置いて光と影の遊びを楽しめるというアイデアだった。
「モホリ=ナジは、このすぐあとに有名な作品《ライト・スペース・モジュレータ》(光と影を利用した機械仕掛けの装置)を制作しました。バウハウスの工房を見て回り、ブッシャーのこの照明にヒントを得たのかもしれませんね」とジーベンブロートさんは説明しながらウインクしてみせた。
組み立て式の遊び場は、ル・コルビュジェがモデュロール(建築の基準寸法)を考案する前に作られている。いちばん低い箱は子どもの背に合った高さで、立てればテーブルになる。大きな箱は大人が椅子代わりに使える。扉や窓のついたユニットも用途を限定した飾り棚ではなく、扉を開けて人形劇の舞台にもできる。組み合わせも使いかたも自由自在。「とくに子どもの場合は、いちいち説明する必要はありません。自然に遊びかたを見つけますからね。」
座ったときの高さを実演してみせるジーベンブロートさん。
子ども部屋の設備一式は、バウハウスの工房が幼稚園の教室のために短期間で制作したものだった。「長年オリジナルの存在を探していたのですが、数年前、個人宅に保管されていたのが運よく見つかったんです。本物は現在バウハウス博物館が所蔵していて、ここにあるのはリプロダクトです」とジーベンブロートさんは説明する。
リビングにはガラスをはめた木製の片開きドアを取り入れる一方、広さが限られるキッチンでは、よりスペースをとらない押し出し窓を採用している。こちらはすべて磨き板ガラス製。1923年当時、シンプルな窓には、筋模様やくぼみをつけたガラスをつけるが一般的だったが、《ハウス・アム・ホルン》では厚みのある質の高いガラスを使用し、保温効果を高めている。バウハウスの学生が設計した特殊な蝶番を使い、できるだけ窓が大きく開くように工夫されている。どの方向からもガラス面に手が届くので手入れがしやすい。
学生だったマルセル・ブロイヤーがデザインした女性用の部屋。作り付けのクロゼットは当初のまま保存されており、1998年から99年にかけて全体を修復した際に併せて修復された。建築要素は目的に合わせて赤、黄金色、黒にニス塗りされている。
バスルームには大型のガラス製パネルを使用。このしつらえは、今日に至るまで、美観的にも衛生的にも新しい標準仕様になっている。復元の際、パネルをつなぐ部分が誤って暗色で仕上げられた。
照明は、調度の中でも鍵になる要素だ。現在使われている照明はすべて、竣工当時のデザインを踏襲している。
中央に位置する部屋。採光は、小さなワークルームのパノラマ窓と、サンドブラスト(砂の吹き付け)加工をした採光用の高窓のみ。この控えめな効果は計算されたもので、畳敷きの日本の和室をヒントにしているとされる。バウハウスで教えた教師らは、東洋の瞑想を教室で取り入れていたという。
「これはバウハウスについてあまり知られていない側面なのですが、秘教的な運動に走る人びともいました。代表的なのが画家でデザイナーだったヨハネス・イッテンと、画家で建築家のゲオルク・ムッヘです。イッテンはのちにマスダスナン運動(宗教的な生活実践運動の一派)に加わり、バウハウスの人々を勧誘しました。当時、グロピウスはこれに強く反発し、彼らの影響力が拡大しないようにつとめました」とジーベンブロートさんは説明する。
「これはバウハウスについてあまり知られていない側面なのですが、秘教的な運動に走る人びともいました。代表的なのが画家でデザイナーだったヨハネス・イッテンと、画家で建築家のゲオルク・ムッヘです。イッテンはのちにマスダスナン運動(宗教的な生活実践運動の一派)に加わり、バウハウスの人々を勧誘しました。当時、グロピウスはこれに強く反発し、彼らの影響力が拡大しないようにつとめました」とジーベンブロートさんは説明する。
1924年、ある弁護士の男性が《ハウス・アム・ホルン》を購入する。男性は1938年までここで暮らし、建物に手を加えた。1938年には、ナチス時代に作られた労働者と経営者の統合組織、ドイツ労働戦線(DAF)に売却される。ジーベンブロートさんによると、ドイツ労働戦線は家を解体して教育センターを建設する計画を立てていたが、戦争が始まり、中止になったという。
当時の建築部材や建具の一部など、歴史を伝える品が地下室に保管されている。そこからは、シンプルで合理主義的な建物が万人受けするものでなかったことがわかる。例えばジーベンブロートさんが見せてくれた、写真にある扉のフレーム。「1930年代の終わりから1945年まで、ドイツ陸軍の将校がここに住んでいたのですが、シンプルな扉の枠に、わざわざオーク材のラスティックな装飾をつけていました。」
《ハウス・アム・ホルン》は時代の変化を乗り越え、今も生誕の地に立っている。第二次大戦後はワイマール市に譲渡され、バウハウス大学の教授が長年にわたって住んでいた。1996年、《ハウス・アム・ホルン》を含むバウハウス関連の建物群はユネスコの世界文化遺産に指定された。
現代のワイマール市民は、「一風変わった個性的な」芸術家たちと、後世に多大な影響を与えた20世紀の学校がこの町に建てられたことを、誇りをもって受けとめている。ハウス・アム・ホルンはリノベーションを経て、現在、ワイマール・バウハウス大学のバウハウス友の会が借りる形をとっている。2017年には、バウハウス博物館の一部としてワイマール古典財団に譲渡される予定だ。
教えてHouzz
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現代のワイマール市民は、「一風変わった個性的な」芸術家たちと、後世に多大な影響を与えた20世紀の学校がこの町に建てられたことを、誇りをもって受けとめている。ハウス・アム・ホルンはリノベーションを経て、現在、ワイマール・バウハウス大学のバウハウス友の会が借りる形をとっている。2017年には、バウハウス博物館の一部としてワイマール古典財団に譲渡される予定だ。
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@silviu_olaru: :D